獅子吼城の図
所在地 山梨県北杜市須玉町江草 獅子吼城のブログ 訪問日 2017年12月24日

獅子吼城の図(旧登城口)


獅子吼城の図(根小屋神社にあるもの)
◆歴史◆

築城年代は不明です。

獅子吼城は江草城とも呼ばれ、江草氏の城だったようです。
『甲斐国志』では、応永(1394〜1428年の間)に江草信泰の居城だったと記しています。
江草信泰は甲斐守護・武田信満の三男で、備後の江草氏の養子になったようです。
そのため、江草氏の子孫は備後で栄えますが、江草信泰当人はずっとここに残ったようです。
なぜ遠く離れた備後に?なんて思いましたが、父の武田信満は甲斐と安芸両国の守護でした。
そして、なぜ甲斐に残ったのか?なんて思い色々ググってみると・・・
江草信泰は25歳で没したそうです。
病死なのか、戦死なのかは?ですが、行かなかったというより行けなかったかもしれません。

今井氏が城主となりました。

江草信泰の遺領は、甥の今井信経が「兵庫助」の名とともに継ぎました。
甥っ子(弟の子)ということで、今井氏も甲斐守護・武田氏の一族です。
今井氏はその子の代で表今井家と浦今井家に分かれ、獅子吼城は浦今井家の城となりました。
表今井家は兄・今井信乂の系統で、甲斐守護の武田家に付き従いました。
一方、浦今井家は弟・今井信慶の系統で、武田家とは事あるごとに反発しました。

1509年、小尾弥十郎が乗っ取りました。

いくらググっても、この前後の出来事は不明、としか出て来ません。
なので、勝手に推測しちゃいます。
だって、ブログですからw

浦今井家はこの年、諏訪頼満に攻められています。
この戦では、今井信是の弟・平三が諏訪軍により討ち取られています。
同じ頃、武田信虎は叔父・油川信恵を前年に滅ぼし、甲斐統一へ大きく前進していました。
しかし、大井氏や栗原氏など、まだ従わない有力国人も多く、不安定な時期でした。
もし、諏訪頼満が武田信虎に浦今井氏を挟み撃ちにしようと持ち掛けたらどうなるでしょうか?
小尾氏は津金衆に属する一族で、武田氏に従っていました。

もしかしたら小尾氏が獅子吼城を乗っ取り、野戦で諏訪軍が今井軍を叩いたのかもしれません。
今井信是は諏訪頼満と和睦し、その娘を今井信是の子・信隣の正室に迎えました。
直接戦っていた諏訪軍が勝ったため、城は今井信是に返されたものと思われます。

1532年、武田信虎に攻められました。

今井信是は、1520年に大井信達らとともに大規模な反乱を起こしました。
この時に武田信虎に大敗を喫し、降伏の条件として子の今井信元に家督を譲りました。

その今井信元も、1531年に飯富氏、大井氏、栗原氏らと共に反乱を起こしました。
この時は、姑の諏訪頼満からの援軍も来る本格的な挙兵でした。
しかし、2月に大井信業が討死し、4月には河原辺で連合軍が武田軍に大敗しました。
今井信元は獅子吼城に籠城して抵抗を続けましたが、翌年9月に開城し降伏しました。
この戦に勝った事が、武田信虎の甲斐統一達成とされています。
以後の今井信元の動向はよくわかりませんが、甥の今井信昌が武田家に仕えています。

1582年、後北条軍により改修されました。

織田信長により武田勝頼が滅ぼされ、甲斐・信濃にはその家臣がやって来ました。
しかし、その3か月後には本能寺の変があり、各地で織田家臣排斥の動きが激しくなりました。
そのため、織田家臣は命からがら逃げだし、中には河尻秀隆のように討たれる者もありました。
支配者が居ない空白地となった甲斐・信濃を、周辺の大名が奪い合う戦が始まりました。

甲斐では徳川家康が新府城、北条氏直が若神子城に布陣し、睨み合う状況が続きました。
その中で、北条氏直は若神子城の背後にあった獅子吼城を改修し、兵を置きました。
この時の獅子吼城の事が「江草小屋」と表現されており、既に城でなかった可能性があります。
徳川家康は服部半蔵と津金衆に獅子吼城の攻略を命じ、夜襲により陥落しました。
その後、徳川家康と北条氏直が和睦すると、獅子吼城は廃城となりました。

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