高嶺城

所在地:山口市上宇野令
2010年8月30日(訪問日:2010年8月4日)

◆概要◆


1556年に大内義長により攻勢を増す毛利元就の侵攻に備えるため築かれました。 大内義長は1551年に陶隆房に迎えられて大内家の当主となりましたが、1555年の厳島の戦で陶晴賢が敗れ、大内氏は壊滅的な打撃を受けました。 毛利軍による侵攻は予想以上に早く、1557年には山口に侵攻。 大内義長は未完成の高嶺城に立て籠もらざるを得ませんでした。 結局、大内義長は城を放棄して長門国の且山城へ逃れ、その地で自害しました。 大内氏の滅亡後、高嶺城は毛利氏によって築城が再開されて完成しました。 市川経好が城代となり、山口支配の拠点となりました。 1569年、大友義鎮の支援を得た大内輝弘は、豊後より周防へ侵攻しました。 大内家臣残党の支援を得た大内輝弘は山口を制圧し、高嶺城を包囲しました。 城主・市川経好は九州に出陣中のため不在でしたが、市川経好の妻が指揮を執り奮戦しました。 城の守りは固く、大内輝弘は高嶺城を攻め落とすことはできませんでした。 その間に九州より帰ってきた毛利軍に敗れ、大内輝弘は自害しました。 1600年の関ヶ原の戦の後、毛利輝元は周防・長門の二ヶ国に減封されました。 毛利輝元は新たな根拠地の候補地として、萩の指月山、防府の桑山とともに高嶺を挙げましたが、要地である山口への拠点移動は許されませんでした。 このため、萩城が毛利家の本拠地となりました。 1615年の一国一城令により破却されることが決定し、1638年に廃城となりました。 のちに、城址が山口城の詰城として使用されました。
高嶺城 図
縄張図
高嶺城
石垣
高嶺城
石垣
高嶺城
石垣
高嶺城
石垣
高嶺城
本丸
高嶺城
本丸
inserted by FC2 system