勝山御殿

所在地:山口県下関市田倉御殿町
2011年1月21日(訪問日:2010年8月4日)

◆概要◆


幕末の長州藩は攘夷派の中心であり、1863年5月に関門海峡で外国船を次々に砲撃しました。 そのため下関(馬関)戦争が勃発し、6月にはアメリカとフランスの報復攻撃により大きな被害を受けました。 緊迫する状況の中、長府藩主・毛利元周は海岸に近い長府陣屋から内陸部に移転することとし、突貫工事で勝山御殿を築き始めました。 築城には男女を問わず領民が総動員され、7ヶ月後に完成しました。 勝山御殿は勝山の山麓に築かれましたが、「御殿」と称したのは幕府の「武家諸法度」を意識したからであり、実質的には総石垣造りの「城」でした。 構造は南北に階段状に本丸、二の丸、三の丸が構えられ、最上段に藩主の居間、中段に御座の間・御次・御茶室・殿間・大御所院などの藩政を司る施設がありました。 二の丸の石垣は石材を交互に斜めに組み合わせる「落とし積み」という技法が用いられています。 明治時代になると、長府藩は「豊浦藩」と改称し豊浦県庁として利用されましたが、すぐに山口県に統合されたため、建物は撤去されました。 しかし、石垣は現存しており、幕末に築城された本格的な城郭遺構として全国的にも貴重です。
勝山御殿 図
勝山地区公園案内図
勝山御殿
外側の石垣
勝山御殿
本丸の石垣
勝山御殿
本丸の石垣
勝山御殿
本丸御殿跡の広場
勝山御殿
覚苑寺庫裏・客殿(御殿の一部)地図
勝山御殿
了円寺山門(移築門)地図
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