手取城

所在地:和歌山県日高郡日高川町和佐
2012年3月25日(訪問日:2011年8月1日)

◆概要◆


南北朝時代の1352年から1379年の間に和佐に進出した玉置氏により築かれたと考えられています。 玉置氏はもとは熊野・玉置社の別当職であり、古くからの土豪でした。 その一族が川沿いに下り、川上庄の川上則秋を滅ぼして和佐・別所谷に城を築いたと伝わります。 川上氏を滅ぼしたのは湯川氏との説もありますが、湯川氏も鎌倉時代には熊野に居ました。 玉置氏と同じ頃に亀山城を築いて本拠としたことから、行動を共にしていたと考えられています。 その後、湯川氏は足利将軍家とのつながりを強め、紀伊の在地領主の中では随一の影響力を持つに至りました。 応仁の乱や畠山氏、細川氏、三好氏の内紛で戦乱続きでしたが、湯川氏と玉置氏は常に行動を共にしていました。 しかし、1585年の豊臣秀吉による紀州征伐では意見が分かれました。 玉置直和をはじめ白樫氏や神保氏、湯川一族の中にも降伏を勧める者がありましたが、湯川直春は徹底抗戦を主張してお互いに譲りませんでした。 そのため、玉置氏らは湯川氏と袂を分かって城に籠りましたが、湯川直春に攻められ落城しました。 その後、玉置直和は出家し、玉置永直が家督を継ぎました。 玉置永直は紀伊の主となった豊臣秀長に仕え、手取城主に返り咲きました。 しかし、関が原の戦では西軍についたため改易され、おそらくこの時に廃城になったと思われます。 城跡は曲輪や堀切、土塁などの遺構がよく残り、城址碑や説明板などが設置されています。
手取城
登城口
手取城
説明版
手取城
説明版
手取城
土塁
手取城
城址碑
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