石神井城

所在地:東京都練馬区石神井台
2017年6月18日更新(訪問日:2011年8月13日)

◆概要◆


石神井城は鎌倉時代末期から室町時代中期までの間、豊島氏が拠点としていたお城です。 北の三宝寺池、南の石神井川を天然の堀とし、その間にある台地の両端を堀切で断ち切って中央部分を城としていました。 全体では9ha程の規模であったと推定されています。 豊島氏は秩父平氏の系統で、同族に畠山氏、河越氏、江戸氏などがあります。 彼らは秩父党という武士団を形成しており、豊島氏は早くから源頼朝に加勢して鎌倉幕府設立に大きく貢献しました。 一族からは奥州藤原氏討伐の功により奥州総奉行に任じられた葛西氏が出ています。 この他に練馬氏、板橋氏、平塚氏などの庶流が派生し、武蔵国一円を支配する大勢力となりました。 石神井城が築かれたのはこの頃です。 その後、豊島氏は他の秩父一族である河越氏、江戸氏らととも平一揆と呼ばれ、足利尊氏に味方して新田義貞と戦いました。 室町時代に入り上杉禅秀の乱(1416年)では鎌倉公方に味方し、江戸氏とともに戦功第一とされて上杉禅秀の遺領を与えられました。 鎌倉公方は足利将軍家が関東を支配するために設置ましたが、その補佐役である関東管領は室町幕府が任命したので、彼らはしばしば対立しました。 1439年には足利持氏が関東管領・上杉憲実と争って敗れて討死にしています(永享の乱)。 足利持氏の遺児・成氏が許されて鎌倉公方を再興すると、早速関東管領・上杉憲忠を暗殺してしまいました。 そのため室町幕府から追討令が出され、足利持氏は鎌倉を攻め落とされて古河に移り、「古河公方」と呼ばれるようになります。 豊島氏は関東管領・上杉氏側に味方しましたが、扇谷上杉氏の家宰・太田道灌が古河公方に対抗するため、河越城、岩槻城、江戸城などを築きました。 これは豊島氏の領地を囲むように配置されており、後に豊島氏と太田氏が対立する要因となったと考えられています。 その後、1476年に関東管領・上杉氏の内紛で長尾景春が反乱を起こすと、豊島氏は長尾景春に味方をしました。 豊島氏の領地は扇谷上杉氏の本拠・河越城と太田道灌の江戸城を分断する位置にありました。 石神井城の豊島泰経は平塚城の弟・豊島泰明とともに挙兵しましたが、太田道灌に江古田・沼袋原の戦いで大敗して豊島泰明が戦死し、石神井城も落城しました。 豊島泰経は翌年平塚城で挙兵したものの敗れて小机城へ逃れましたが、小机城も太田道灌に攻められて行方不明となり、豊島氏は滅びました。 現在、城跡は石神井公園となっており、三宝寺池の南側にある主郭では土塁や堀切がよく残っています。 遺構保護のため立ち入ることはできませんが、フェンス越しに土塁や堀がよく見えます。
石神井城 図
石神井公園案内図
石神井城 三宝寺池
北側の堀の役割を果たした三宝寺池
石神井城 説明板
主郭北側にある説明板
石神井城 城址碑
城址碑
石神井城 土塁
フェンス越しに見える高い土塁
石神井城 土塁
フェンスの上から見た土塁
石神井城 説明板
主郭の説明板
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