長島高城

所在地:東京都江戸川区東葛西3丁目
2017年5月31日更新(訪問日:2011年8月13日)

◆概要◆


長島高城の築城年代や築城者は不明ですが、隅田川と江戸川に挟まれた水上交通の要衝であり、古くは「葛西御厨」と呼ばれていました。 長島高城は清光寺や香取神社などの寺社が密集している地域に存在していたと考えられています。 直接的な記録が乏しいので周辺地域の歴史をもとに推察してみます。 源頼朝に従って戦功を挙げた豊島清光は次男・清重に葛西庄を与え、清重は葛西姓を名乗るようになりました。 葛西清重は葛西庄を伊勢神宮に寄進したため「葛西御厨」と呼ばれるようになり、葛西氏が荘官として実質的に支配しました。 葛西清重は平家討伐後に陸奥にも広大な領地を得て、関東と陸奥を行き来するようになりました。 葛西氏が本拠を陸奥に移した時期は明確ではありませんが、葛西清重の曾孫・清経の頃(西暦1300年頃)であったとする説が有力です。 葛西氏が去った後は、下総の千葉氏が支配していたと考えられます。 千葉氏は、1455年の享徳の乱で嫡流の武蔵千葉氏と庶流の下総千葉氏に分裂しました。 太田道灌の助力を得て武蔵千葉氏が優勢でしたが、在地領主たちが従わなかったため、実質的に下総千葉氏が支配し続けました。 その下総千葉氏も1557年に当主・千葉昌胤が後北条氏寄りの重臣・原氏に暗殺され、実質的に後北条氏の支配地となりました。 長島高城は後北条氏家臣・太田康資の領地となりましたが、恩賞に不満を持ち後北条氏に叛旗を翻すようになり、1564年の第二次国府台合戦では後北条氏と敵対していた里見氏側に味方しました。 しかし、この戦で大敗したため、里見氏を頼って落ち延びました。 後北条氏が1590年に豊臣秀吉により滅ぼされた時に多くの城が廃城となっており、長島高城も同様の運命と辿ったものと考えられます。
長島高城 長島之碑
長島之碑(歴史が彫られています)
長島高城 清光寺本堂
清光寺本堂
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