◆概要◆
板橋城は築城年代は不明ですが、豊島氏の庶流・板橋氏が居城としていました。
豊島氏は1023年に武蔵介藤原真枝を討った秩父武常が、その功により武蔵国豊島郡を得たことに始まりました。
この他に下総国葛飾郡葛西にも所領を持っており、こちらの子孫は葛西氏となりました。
豊島氏は1059年の前九年の役の頃から源氏に仕えており、源頼朝が挙兵した際にも早くから参戦しました。
室町時代には扇谷上杉氏に仕えていましたが、1453年の享徳の乱以後、同じ扇谷上杉氏に仕える太田道灌が力をつけて、豊島氏の領地を囲むように所領を拡大したことで対立するようになりました。
そして1476年に起きた長尾景春の乱で豊島氏が長尾景春に同調したため、太田道灌により滅ぼされました。
この時に板橋氏は太田道灌の軍門に降り、千葉自胤直属の配下になったとされます。
扇谷上杉氏は後に山内上杉氏との争いが始まり、その隙を突いた伊勢宗瑞(北条早雲)により領地を侵食されました。
江戸城が落城したのが1524年であるため、それまでには板橋氏も後北条氏の配下になったと考えられています。
その後、1590年に後北条氏は豊臣秀吉により滅ぼされましたが、板橋氏は徳川家康に仕えて旗本となりました。
板橋城のあった場所には諸説あり確定していませんが、長命寺のある場所が有力であると考えられています。
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