石浜城

所在地:東京都荒川区南千住3丁目
2017年5月29日更新(訪問日:2011年8月13日)

◆概要◆


石浜城の築城年代および築城者は不明ですが、1456年に領地を追われた千葉宗家の千葉実胤が落ち延び、太田道灌に石浜城を与えられました。 地理的には隅田川を挟んで下総国と隣接しており、敵対する側の千葉氏に備える戦略的な意図があったと考えられています。 千葉氏は、1455年の享徳の乱で扇谷上杉派と古河公方派に分裂し、争いの結果、扇谷上杉派で千葉家16代当主・千葉胤直とその嫡男・胤宣、胤直の弟・胤賢が討ち取られました。 生き残った千葉胤賢の子・実胤と自胤は市河城に籠城しましたが翌年敗れ、太田道灌を頼って武蔵に落ち延びて来ました。 その後、室町幕府から派遣された千葉一族の東常縁が古河公方派の原胤房と馬加康胤を攻め滅ぼしましたが、馬加氏の支流・岩橋孝胤が本佐倉城を築いて千葉姓を名乗って抵抗を続けました。 千葉実胤は戦には向かない性分であったようで、1462年に隠遁してしまいました。 弟の千葉自胤がその後の家督を継いで、石浜城に移って来ました。 まもなく帰参した千葉実胤は、赤塚城に移されたと考えられています。 千葉自胤の子孫は下総を取り戻すことができなかったため、以後は「武蔵千葉氏」と呼ばれるようになります。 千葉自胤は自ら太刀を振るう勇将で、太田道灌が遠征する際は江戸城の守備を任される程でした。 しかし、太田道灌を暗殺した後の扇谷上杉氏は没落の一途を辿り、1510年頃から伊勢宗瑞(北条早雲)により武蔵の地を侵食されるようになりました。 1524年には江戸城が北条氏綱により攻め落とされており、武蔵千葉氏はこの頃に後北条氏の家臣になったと考えられています。 武蔵千葉氏は後北条氏のもとで活躍しましたが、豊臣秀吉の小田原征伐で所領を没収され没落しました。 石浜城は隅田川沿いにあったと推定されていますが、度重なる氾濫により正確な位置が特定出来ていません。 城跡と伝わる場所に石濱神社があり、千葉自胤の子・守胤が建立した真先稲荷も境内にあります。 石濱神社も洪水や開発のたびに遷座を繰り返しています。
石浜城 石濱神社
石濱神社
石浜城 石濱神社
社殿
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