赤塚城

所在地:東京都板橋区赤塚5丁目
2017年5月28日更新(訪問日:2011年8月13日)

◆概要◆


赤塚城が築かれた年代は不明ですが源頼朝が立ち寄った記録があり、鎌倉時代初期には豊島一族の赤塚氏が支配していたと考えられています。 赤塚郷は京都嵯峨・鹿王院の荘園でしたが、赤塚氏が実効支配していました。 しかし、室町時代になり享徳の乱(1455年)の後、赤塚郷は太田道灌により下総を追われた千葉氏嫡流の千葉実胤・自胤兄弟に与えられました。 享徳の乱での豊島氏の動向は不明ですが、近隣の平塚城や滝野川城などは豊島氏の一族が1477年まで支配いるので、おそらく赤塚氏だけが古河公方側に加担して敗れたと思われます。 千葉兄弟の兄・実胤は1462年に隠遁したため、弟の千葉自胤が家督を継いで後に石浜城へ移りました。 まもなく帰参した千葉実胤は、赤塚城に移されたとみられています。 千葉自胤の子孫は下総の地を取り戻すことができなかったため、以後は「武蔵千葉氏」と呼ばれるようになります。 千葉自胤は自ら太刀を振るう勇将で、太田道灌が遠征する際は江戸城の守備を任される程でした。 しかし、太田道灌を暗殺した後の扇谷上杉氏は没落の一途を辿り、1510年頃から伊勢宗瑞(北条早雲)により武蔵の地を侵食されるようになりました。 1524年には江戸城が北条氏綱により攻め落とされており、武蔵千葉氏はこの時に北条氏の配下になったと考えられます。 武蔵千葉氏は北条氏のもとでも活躍しましたが、豊臣秀吉による小田原征伐で所領を没収され滅びました。 城跡は本丸が都立赤塚公園として整備されており、城址碑と説明板が設置されています。
赤塚城 本丸跡
本丸跡
赤塚城 城址碑
城址碑
赤塚城 説明板
説明板
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