興聖寺城

所在地:栃木県佐野市吉水町
2011年10月20日(訪問日:2011年7月16日)

◆概要◆


佐野国綱が1228年に岩崎義基のために築きました。 岩崎義基は佐野氏の一族であるという説と、木曽義仲の嫡男・清水冠者義高の偽名であるという説があります。 清水冠者義高は木曽義仲が人質として源頼朝に預けていた人物で、鎌倉で暮らす内に源頼朝の娘・大姫と許婚となりました。 二人はとても仲が良かったそうですが、木曽義仲が後白河法皇と対立したため源頼朝は追討せざるを得ず、粟津の戦いで木曽義仲を討ち取りました。 清水冠者義高の立場が危ういものとなったため、大姫の機転により女装して鎌倉を脱出しました。 その日の夜に露見したため、源頼朝は追手を差し向け、武蔵国入間で堀親家により討ち取られたことになっています。 しかし、ここで討ち取られずに逃げ延び、岩崎義基と名を偽って生き延びて佐野国綱により保護されたという説があります。 地理的には佐野氏の本拠地・唐沢山城の南西の麓にあり、重要な支城であったと考えられています。 城は本丸、北二の丸、南二の丸、三の丸から成り、それぞれの曲輪は水堀で囲まれていました。 本丸の規模は東西約120メートル、南北約130メートルのほぼ正方形で、周囲を土塁と堀が取り巻き、外に家臣の侍屋敷が配置されていました。 現在、住宅や水田に囲まれていますが、本丸跡にある興聖寺周辺は土塁と堀が良く残されています。
興聖寺城
興聖寺
興聖寺城
土塁
興聖寺城
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