佐和山城

所在地:滋賀県彦根市佐和山
2018年10月7日更新(訪問日:2009年11月23日)

◆概要◆


佐和山城を築城したのは鎌倉時代の豪族・佐保氏とされます。 近江と美濃の国境にある上、近江の南半分が手に取るように見える要地であったため、戦国時代には六角氏と浅井氏が激しい争奪戦を繰り広げました。 元亀年間(1570年頃)には浅井氏の家臣・磯野員昌が織田信長と激戦を繰り広げましたが降伏し、代わって織田氏の家臣・丹羽長秀が入城して近江国支配の拠点としました。 本能寺の変後は堀秀政に与えられ、その後、堀尾吉晴が入城しました。 1590年には五奉行の一人である石田三成が入城し、山頂に五層の天守を築くなど大規模な改修を実施。    「治部少に過ぎたるもの二つあり、島の左近と佐和山の城」と言われるほどでした。 1600年の関ヶ原の戦いで石田三成が徳川家康に敗れると、小早川秀秋が先鋒となって佐和山城を猛攻撃。 城内の一部の兵が裏切って小早川軍を引き入れたため落城し、石田三成の一族は滅びました。 兵士は財宝目当てに乱入しましたが、城は質素な造りで出てきたのは豊臣秀吉からの感謝状のみであったと伝わっています。 戦後は徳川四天王の一人・井伊直政が入城しました。 井伊直政は石田三成の居城であったことと中世的な縄張りが気に入らず、新たに彦根城築城を計画しました。 しかし、井伊直政は築城に着手できないまま関ケ原での戦傷が元で死去したため、嫡子の井伊直継が彦根城築城を開始しました。 彦根城は佐和山城や大津城、小谷城など近江で廃城となった城の築材を利用して完成しました。 1606年に井伊直継が彦根城に移ったため、佐和山城は廃城となりました。 建物は彦根城に移築したり破却されたため、城跡には残っていません。 彦根城が丸見えだったため徹底的に破却されていますが、石垣と土塁の一部などがわずかに残っています。
佐和山城 図
ハイキングコースの案内図に描かれた佐和山城
佐和山城 図
説明板に載っている江戸時代の佐和山古城図
佐和山城 模擬天守
佐和山遊園(2015年閉鎖)にある模擬天守
佐和山城 登城路
佐和山遊園側の登城路
佐和山城 石垣
僅かに残る石垣
佐和山城 城址碑
城址碑
佐和山城 本丸
本丸
佐和山城 彦根城
彦根城が丸見えです
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