彦根城
所在地:滋賀県彦根市金亀町
2018年10月6日更新(最終訪問日 2018年9月23日) | |||
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◆概要◆ 全国に12基ある現存天守の1つで国宝に指定されています。 滋賀県彦根市金亀町にあり、別名・金亀城(こんきじょう)とも呼ばれています。 琵琶湖と山の間の狭い平地にある彦根は、中山道と北国街道が合流し水陸から京に至る交通の要衝です。 そのため、古来より数々の合戦がこの地域で勃発しました。 戦略拠点として重視され、織田信長は佐和山城に丹羽長秀を、長浜城に羽柴秀吉を配置。 豊臣秀吉は石田三成、徳川家康は井伊直政など、それぞれの筆頭格の譜代をこの地に置きました。 徳川四天王の一人・井伊直政は1600年にあった関ヶ原の戦の後、その軍功により佐和山城に入城しました。 井伊直政は中世的な古い縄張や石田三成の居城であった佐和山城を嫌って、湖岸に近い磯山での築城を計画しました。 しかし、関ヶ原の戦で島津勢を追撃した時の鉄砲傷が原因で、1602年に死去しました。 井伊直継が家督を継ぎましたが幼少であり、家臣団が再検討の末、1603年に琵琶湖に浮かぶ彦根山に築城を開始しました。 工事には公儀御奉行3名が付けられ、7か国12大名が手伝いを命じられる天下普請でした。 大津城から天守、佐和山城から佐和口多門櫓(非現存)、小谷城から西ノ丸三重櫓、長浜城から天秤櫓など、建築物の移築伝承が多くあります。 建物や石材の移築は、コスト削減と工期短縮のために行われたものでした。 1606年に二期までの工事が完了し、翌年の天守完成と同時に井伊直継が入城しました。 1616年には第三期工事が始まり、1622年の御殿竣工によりようやく全ての工事が完了しました。 江戸時代には多くの大老を輩出した譜代大名の名門・彦根藩井伊氏16代の居城でした。 安政の大獄で有名な井伊直弼は、彦根藩の15代藩主でした。 井伊直弼が藩主となるまでの不遇な時代を過ごした屋敷は「埋木舎(うもれぎのや)」として現存しています。 彦根城は1878年に廃城となり、破却される事が決まっていました。 しかし、その直前に大隈重信が視察し、名城の消失を惜しんで明治天皇に上奏したことで破却を免れています。 |
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登り石垣の説明板に載っている図 |
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桜場駐車場前から見た内堀 桜場駐車場前から見た内堀 黒門跡 黒門跡 井戸曲輪手前の門跡 井戸曲輪 水手御門跡 水手御門跡 水手御門跡から見た天守 西の丸 本丸の門跡 天守 着見台 着見台から見た天守 着見台から見た石垣 日に何度か現れるようです 太鼓門 太鼓門櫓と天守 太鼓丸 本丸の石垣と門跡 太鼓丸東石塁 天秤櫓 天秤櫓前の堀切 大手門坂と登り石垣 大手門坂と登り石垣 大手門跡 大手橋と大手門跡 内堀と石垣 表門跡 表門脇の登り石垣 表門跡周辺 二の丸佐和口門 二の丸佐和口多聞櫓 |
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