金鑽御嶽城

所在地:埼玉県児玉郡神川町渡瀬
2017年6月23日更新(訪問日:2013年11月23日)

◆概要◆


南北朝時代に長井実永により築かれたとされます。 長井実永は南朝の北畠顕家に従い、鎌倉管領の足利義詮のと戦った様子が太平記に記されています。 その後一時城は廃れましたが、1480年に安保吉兼により再築城されました。

安保氏は丹党に属し鎌倉公方に従っていました。 しかし、1455年に享徳の乱が勃発し、鎌倉公方と関東管領の山内上杉氏が対立。 山内上杉氏が至近距離に雉ヶ岡城(東約5km)のち平井城(北北西約5.5km)を築き本拠とすると、安保氏は山内上杉氏に従いました。 安保氏が再築城した1480年は、長尾景春の乱が終息しつつある頃でした。 鉢形城(南東約13km)で2年前に挙兵した長尾景春は、五十子で対陣していた主君・山内上杉軍を古河公方軍とともに攻めて破りました。 しかし、上杉軍の太田道灌が反撃を開始すると次第に追い詰められ、西の日尾城に籠城している頃でした。 長尾景春はこの年の6月に降伏し、古河公方のもとに預けられました。

その後、後北条氏が次第に勢力を拡大し、1546年の河越夜戦でついに扇谷上杉氏を滅ぼしました。 周囲の有力者たちはこぞって後北条氏に寝返りましたが、安保氏は山内上杉氏に従い続けました。 しかし、1554年に金鑽御嶽城が後北条軍に攻め落とされ、平井城を守り切れなくなった山内上杉氏は越後へ逃れました。 この時に一時安保氏は没落しました。 これ以降は後北条氏の家臣で長井実永の子孫と称する長井氏が城主になったとされます。 尚、安保氏は1560年に長尾景虎(後の上杉謙信)が後北条氏を攻めた際、後北条氏に味方して上野国に領地を与えられています。

1569年、三国同盟が破綻したことにより、武田信玄が北条氏政を攻めました。 武田軍は碓氷峠を越えて南に進み、金鑽御嶽城を攻め落としました。 金鑽御嶽城はそのまま廃城になったようです。 武田軍はそのまま鉢形城を包囲した後、更に南へ進み、滝山城を落城寸前まで追い込んでから小田原城を包囲しました。 武田軍は城下に火を放つなどしましたが、4日後に撤退しています。
金鑽御嶽城 図
案内図より抜粋。鏡岩を通るルートが近道のようです。
金鑽御嶽城
登城口は金鑽神社です
金鑽御嶽城
神社から御嶽山を目指します
金鑽御嶽城
鏡岩を通るのは右の道です
金鑽御嶽城
鏡岩
金鑽御嶽城
見晴台は物見跡でしょうか
金鑽御嶽城
見晴台から見た御嶽山
金鑽御嶽城
山頂の手前に横堀っぽい構造が
金鑽御嶽城
上から見た所
金鑽御嶽城
最後はロープにつかまりながら登ります
金鑽御嶽城
御嶽山の山頂
金鑽御嶽城
山頂=城跡の本郭です
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