摂津野田城

所在地:大阪市福島区玉川4丁目
2012年3月11日(訪問日:2011年8月4日)

◆概要◆


野田城は細川高国の要請に応じて挙兵した浦上村宗が城を築いたのが始まりです。 浦上村宗は赤松氏に仕えていましたが、下克上により実質的な領主となった人物です。 当初、浦上軍は破竹の勢いで攻め上がり、敵である細川晴元方の別所氏や池田氏らの軍勢を打ち破りました。 そして摂津で構えた城が野田城でした。 そのまま一気に決着が着くかに思われましたが、細川晴元や三好政長が兵力を整えたため膠着状態となりました。 そこへ細川高国からの援軍要請を受けた赤松政祐の軍勢が播磨から到着しました。 しかし、赤松政祐は助けに来たはずの浦上村宗の陣を急襲したため浦上村宗が討死。 同じ頃に三好政長も大物城の細川高国を攻め滅ぼして決着が着きました。 これが俗に言う「大物(だいもつ)崩れ」です。 この戦いの後、野田城は細川高国の子・細川氏綱の城になりました。 細川氏綱は後に父親の仇・細川晴元を江口の戦いで破って失脚させました。 細川氏綱は細川晴元を失脚させることに成功しましたが、その後幕府の実権を握って管領になったのは、細川晴元の配下である三好長慶でした。 三好長慶は敵対勢力を次第に駆逐し、一時は畿内8カ国を領有するまでになりました。 三好長慶の死後、三好氏は養子の三好義継が家督を継ぎましたが、後見役の三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)が実権を握っていました。 その頃に織田信長が畿内へ進出しており、次第に三好氏の領地を侵食していきました。 そこで利害を同じくする本願寺と協力して織田信長に対抗することとなり、その際に野田城は福島城とともに大規模な改修を受けました。 しかし、最終的には織田信長に攻め落とされ、4km東にある石山本願寺攻略の拠点となりました。 織田信長が石山本願寺と和平を結ぶとその役割を終え廃城になったとみられますが、大坂冬の陣では豊臣方が堀や櫓を整備して再利用しました。 当時は海が近く、大きな川に囲まれた島のような地形でしたが、土砂の堆積や埋め立てなどによって平地となりました。 遺構は全く残っていませんが、地下鉄玉川駅の2番出口と、付近にある極楽寺に城址碑があります。

摂津野田城 極楽寺
城跡にある極楽寺
摂津野田城 城址碑
極楽寺の前にある城址碑
摂津野田城 城址碑
玉川駅2番出口脇にある城址碑
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