三箇城

所在地:大阪府大東市三箇5丁目(三箇菅原神社)
2012年3月7日(訪問日:2011年8月3日)

◆概要◆


築城時期や築城者は不明ですが、湿地の中の3つの島に城があったことが三箇城の名の由来とされます。 その様子をルイス=フロイスは「教会は水に囲まれた島にある」と表現しました。 三好長慶の時代の1562年に城主・三箇頼照が洗礼を受けてキリシタンとなりました。 サンチョという洗礼名が与えられ、宣教師やキリシタンを手厚く保護したため、信者は一時1500人を数えたといいます。 宣教師からは「サンチョは今まで見てきた日本人の中で最も信仰心が厚い」と評されていました。 三箇城は三好長慶の居城・飯盛山城の西にあり、近くの野崎城とともに飯森山城の出城的な役割を果たしていました。 三好義継が滅ぼされた後、三箇氏は織田信長配下の佐久間信盛に仕えました。 しかし、三箇頼照の子・頼連が本能寺の変で明智光秀方に味方したため、明智光秀が討たれた後に攻められ、三箇城は廃墟と化しました。 その後、江戸時代には大和川の流路を変える付替え工事が行われ、湿地帯が埋め立てられたため、当時の面影は残っていません。 城址碑は、城があったと推定されている場所にある三箇菅原神社前にあります。

三箇城 三箇菅原神社
三箇菅原神社
三箇城 城址碑
城址碑
三箇城 城址碑
城址碑はココにあります
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