黒丸城

所在地:大阪府摂津市鳥飼中2丁目
2012年3月17日(訪問日:2011年8月4日)

◆概要◆


築城年代、城主、廃城時期などは不明で、室町時代書かれた『細川両家記』に「鳥養」の辺りに軍事的な拠点があると記載されているのみです。 1つめの記述は「同四日(1559年8月4日)に三好方の衆は天王寺まで諸陣くつろげられ候、五日に鳥養に帰陣也。」とあります。 これは河内守護代・安見直政が守護・畠山高政を追放したため、三好長慶が安見直政を討伐し、高屋城、飯盛山城などを攻略して畠山高政を復帰させた時の事です。 もう1つは「同廿二日(1570年9月22日)に諸軍敢軍して始め陣所天満森へ被引退候・・・然処に鳥養辺にて御談奮あり。」とあります。 これは織田信長が三好三人衆と戦った野田城・福島城の戦いでの事と思われます。 織田軍は優勢に戦いを進め、三好三人衆をあと一歩の所まで追い詰めていました。 しかし、9月に入ると石山本願寺が参戦。 更に織田軍の背後で浅井氏と朝倉氏が挙兵したことで状況が一変しました。 織田信長は一度和議を結んで畿内からの撤退を余儀なくされており、この時に鳥養に立ち寄りました。 黒丸城の遺構は何も無く城址碑があるのみですが、黒廻、城ノ前、内殿、地殿など地名が城の名残として残っています。

黒丸城 城址碑の手前
城址碑の手前
黒丸城 城址碑
城址碑
黒丸城 植え込みの陰
植え込みの陰にあります
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