南山城
所在地:沖縄県糸満市大里(南山神社)
2012年7月8日(訪問日:2012年6月30日) | |
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◆概要◆ 南山城は別名は島尻大里城、高嶺城とも呼ばれ、14世紀に山南王・承察度(うふさっと)により築かれました。 承察度は大里(うふさと)の当て字と考えられています。 数代にわたって同じ名を襲名したため区別しづらいのですが、少なくとも3代は続いたようです。 1380年より明への朝貢を22回にわたって行い、明の皇帝より鍍金の銀印を下賜されています。 しかし、1388年からは叔父の汪英紫も明への朝貢を始め、1398年に朝鮮に温沙道(承察度?)が亡命していることから、両派が対立して二重王制が敷かれていた可能性があります。 南山城の周囲には多くの出城があり、三山鼎立時代には南山の中心であったと考えられています。 しかし、城の規模が小さいことから、島添大里城が南山の中心であったとする説もあります。 他魯毎(たろみい)の代の1429年、北山を倒した中山王・尚巴志により南山も滅ぼされ、琉球統一がなされました。 この時のエピソードとしては、尚巴志の所有する金屏風を他魯毎が所望し、嘉手志川と交換したというものがあります。 尚巴志はすかさず兵を配置したため南山では水が枯渇し、南山方の結束が崩れた所を戦らしい戦もないまま滅ぼしたというものです。 城跡は現在高嶺中学校と高嶺小学校の間に城壁が残されています。 |
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城門跡 城址碑 石積み |
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