鬼ノ城

所在地:岡山県総社市奥坂 GPSログKML形式GPX形式 2018年8月12日更新(最終訪問日 2018年8月8日)

◆概要◆


663年にあった白村江の戦いで百済に援軍をおくっていた日本は、唐・新羅の連合軍に大敗しました。 唐・新羅の侵攻を恐れた朝廷は、西日本各地に防衛施設を築きました。 鬼ノ城もそれらの一つであると考えられています。 鬼ノ城は神籠石式山城であり、朝鮮半島由来の古代城です。 標高400〜600mの吉備高原の南縁に築かれ、総社平野と足守川中流域平野を一望できる遠望絶景の地にあります。 城壁は幅約7m、高さ約6mあり、高石垣を交えつつ、強固な土塁を2.8Kmにわたって巡らせています。 城壁の内外に平らな石が敷かれており、城壁を守るために設けられたと考えられています。 城門は東西南北に4か所あり、いづれも通路部分に石が敷かれています。 西門と南門はほぼ同規模で、12本の柱で支えられた楼門だったと考えられています。 城内は30haに及ぶ広大さで、城庫とみられる礎石建物跡も6、7棟発見されています。 城壁の谷部には水門が6箇所設けられており、いずれも下半分が石垣、上部が土塁であり、城内の水を管理するための排水口として機能していました。 鬼ノ城は古代の正規の歴史書には登場しませんが、温羅(うら)伝説が伝わります。 これは「百済の王子・温羅(うら)が備中国の新山に城を構え、西国から都へ送る物資を奪ったので、人々は恐れて鬼ノ城と呼び、都へその暴状を訴えた」というもので、地名もこれに由来しています。 この他に城内には貯水池とみられる湿地が数ヶ所あり、兵舎、各種の作業場などがあったと推測されますが、まだ発見されていません。

現地案内図

●日本100名城スタンプ設置場所●


 鬼城山ビジターセンター・パネル展示室
 開館時間:9時〜17時(入館は16時半まで)
 休館日:月曜日(祝日の場合は翌平日)、12月29日〜1月3日
 入館料:無料


鬼城山ビジターセンター

散策スタート

まずは学習広場(展望デッキ)へ
鬼城山への細道を登り詰めると、広い立派な駐車場が現れます。 ここが鬼城山観光客用の駐車場です。 その脇にある建物がビジターセンターで、そのパネル展示室にスタンプがあります。 部屋は無人なのですが、なぜかドキドキしながらスタンプを押しました。 スタンプをゲットしたので、次はじっくり散策。 ビジターセンターを出ると、すぐに道が分岐します。 西門と学習広場の2択なのでついつい西門に行ってしまいますが・・・。 実は私も帰り際に寄りました。 西門を真正面からしっかり撮影出来るのは、学習広場にある展望デッキです。

展望デッキから見た西門

西門(近くでは内側しか見えません)

敷石
よく紹介される西門の写真は、ここから望遠で撮られたものです。 西門に限らず、鬼ノ城の門は崖っぷちに建てられています。 そのため、外側からだと距離が無くてどうしても見上げるアングルになってしまいます。 西門周辺は特に整備されており、門の周りには石が敷き詰められています。 山なので道に石が敷かれていると歩きやすいのかと思いましたが・・・ 足の裏がゴツゴツ不安定で、ちょっと歩きにくいです。

城壁

第0水門(標示はありません)

案内に無い意味ありげな構築物
西門の両脇には、高さ5m程の城壁も復元されています。 土の壁になっている部分と石が組まれている部分とがあります。 この城壁を見ている時に、足元に排水路的な石組みを見つけました。 特に何も標示は無かったのですが、減るもんでもないと1枚撮っておきました。 これが実は、案内図に載っている第0水門でした。 1周回って第0水門だけ見つからなかったので見落としたと思っていました。 帰宅してからググってみると、少数ながら画像付きで紹介されていてやっとわかりました。 ということで、何となく意味ありげな石の構築物を手あたり次第撮影しています(笑)

第2水門

第1水門

土塁
西門から反時計回りに道を歩いていると、道端に「第1・2水門」の案内標示がありました。 右矢印があったのでそっち方向の脇道に入ると、最初に第2水門が現れました。 遊歩道は2重になっていて、水門は外側の道沿いにあったのです。 この2つの水門は同じ構造をしていて、下が石組み、上が土塁となっています。 これは水の流れに耐えられるようにするためなのだと、近くにあった説明板に書かれていました。

崖っぷちに見える列状の石

上から覗き込むと高石垣でした

少し引いて見るとこんな感じです
案内図では水門と城門が所々描かれているので、そいつらを見ようと歩いていました。 しかし、先ほどから案内図には載っていない「それっぽいもの」が次から次に現れます。 ここもその1つで、城キチなので何となくピンッと来ました。 崖っぷちに石の列は、近代城郭の石垣の端っこでおなじみの光景です。 柵も何も無い断崖絶壁上から恐る恐る下を覗き込んでみると、見事な石垣が組まれていました。 やってる本人は何とも思わないのですが、傍から見たら危険極まりないポーズをしていたはずです。 ドローンがあれば、空撮したくなるような立派な高石垣ですが、上からなので絵的にはちょっと残念です。 私のような不心得者は少なからずいらっしゃると思うので、安全に見ることが出来るような設備が欲しいですね。 (だから敢えて何も標示が無いのかもしれませんが)
続いて現れたのが南門跡です。 ここは西門のような建物は復元されておらず、柱だけが立てられています。 柱の周りはビッシリと石が敷き詰められており、古代朝鮮式というよりも西洋式のような感じがします。

高石垣

敷石

道の外側に石の列
南門の次は第3水門・・・ 案内標示があるのか無いのかわからないまま進みます。 そんな状態なので、怪しげな石の造形に敏感に反応し、あれやこれやと撮りまくりました。 断崖絶壁沿いの石の列は、私の大好きな高石垣! ということで、再び危なげなポーズで撮影。 さらに進むと、今度は石敷きが現れました。 門が近いのか?と思いましたが、ここには「石敷き」の標示がありました。 その先には、道端に石の列。 何も標示はありませんが、第3水門でしょうか?

振り返ると下が石垣

内側列石

道の内側が低くなっています
石の造形がこれでもかというばかりに続きます。 しかし、第3水門の標示は無く「内側列石」ならありました。 内側があるなら外側もあるんでしょうけど・・・ 道も土塁になっているようで、内側が低くなっています。 もしかしたら、ここが第3水門なのかもしれません。

高石垣

道端に石がゴロゴロ

第4水門
再び崖っぷちに石の列が見え、覗き込むと高石垣でした。 コツをつかむと次から次に見つかるもんです。 崖っぷちの石の列は草の濃い所でも見られるので、高石垣はかなり沢山あるようです。 第3水門はまだか?と思いながら歩いていると、「東門→」の案内が現れました。 東門は案内図では第3水門と第4水門の先にあるので、気づかず通り過ぎたか、それっぽいのがそれだったのか。 そんなモヤモヤした状態で進んでいると、第4水門の案内標示が現れました。 ということは、第3水門は案内標示が無かったということに。 下だけ石積みだった所がそうなのかもしれません。 (1つ上の段の左の写真) 第4水門は崩れており、さらに草に覆われているのでなかなか絵になりません。

東門

鍛冶工房跡

第5水門
その後も標示の無い石の造形っぽいものは次々現れました。 しかし、案内図に載っているものにはそれぞれ標示があったので、ちゃんと進んでいることが実感できました。 東門は東西南北4つの門の中では一番規模が小さく、石垣もあまり目立ちませんでした。 説明板と柱が設置されているので門だとわかりますが、これが無ければ水門のようにも見えました。 鍛冶工房は道端に案内があり、そちらの空間がすぐ近くにありました。 何も標示が無ければ、ただの空間にか見えず。 第5水門はちょっと右が土塁っぽくなり、緑色のネットの所に案内標示がありました。 水門なので下に石垣があるものだと思ったのですが、見当たらず。 水が流れていて説明板にも石があると書かれていましたが、そんな目で見ても石がちょっとあるだけでした。

 

屏風折れの高石垣

 
第5水門を過ぎてすぐに、また石がゴロゴロしてきます。 ただ、それまでとは石の数が圧倒的に違い、やがて断崖絶壁に石が積まれている様子が見えてきます。 ここが屏風折れの高石垣です。 それまでの高石垣とは違って、危なげなポーズで身を乗り出さなくても石垣が見えます。 見えるのは東側だけですが、草木に覆われた北側も崖っぷちに石が並んでいます。

北側は土塁状の所が多いです

温羅旧跡の石碑

土塁
東側から屏風折れの高石垣を過ぎると、それまでよりそれっぽい石の造形が減ります。 減るだけで、時々現れることは現れますが、東側よりもかなり減って土の道が多くなります。 そんな中、珍しく気合の入った石の塊が見え、近づくと「温羅旧跡」の文字が彫られていました。 「温羅」は、この地に伝わる鬼の事です。 土塁っぽいの多いなぁなんて思っていると、「土塁」の標示が現れました。 そこには49mあると書かれていましたが・・・ 49mどころじゃなくて、ほぼずっとじゃないか?と思えました。 道は崖っぷちの土盛り上にあり、その内側が低くなっている状態がずっと続いています。

 

北門

 
北側は石の造形が少なく、普通の山道がアップダウンを繰り返します。 そんな中、急にパッと視界が開ける場所があります。 ここが北門跡です。 石の造形に飢えていたせいなのか、規模が普通に大きいのか、とても感動的な光景でした。 手前の北門の石垣はきれいに組み直されていますが、その向こう側の斜面には沢山の石が転がっていました。 崩れた所もありますが崩れていない所もあり、かなりの規模だった事が見て取れます。 他の3つの門とは違って、門の先に道が通せそうな緩い斜面が続いています。

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