備中高松城
所在地:岡山市北区高松
2018年8月12日更新(最終訪問日 2018年8月8日) | |||
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◆概要◆ 羽柴秀吉に水攻めされた事で有名な城跡です。 周囲は低湿地帯で天然の堀に囲まれ、難攻不落を誇っていました。 築城時期ははっきりしませんが、備中守護代で三村氏の有力家臣でもあった石川氏により築かれました。 1575年にあった備中兵乱で石川氏が主家・三村氏とともに毛利氏に滅ぼされた後は、毛利家臣・清水宗治が城主となりました。 1582年に羽柴秀吉が中国地方攻めの先鋒を任されて、4月より高松城に攻めかかりました。 周囲は沼地に囲まれていたため持久戦となりましたが、花房正成の献策により城を堰堤で囲む工事が開始されました。 突貫工事で11日後に堤防が完成し、堰堤内に水が満ち溢れて城は見事に水没しました。 羽柴秀吉はここに織田信長を招く準備をしていましたが、6月2日に本能寺の変が起こり計画は頓挫。 翌日、毛利軍への密使を捕らえて織田信長の死を知った羽柴秀吉は、毛利方の外交官・安国寺恵瓊を仲介役に急ぎ和議を成立させました。 城兵の命と引き替えに6月4日城主・清水宗治が切腹。 羽柴秀吉は明智光秀と対決すべく「中国の大返し」を行い、近畿に引き返しました。 この落城の後、宇喜多氏の家老・花房氏が入城。 毛利軍の攻撃に備えて城を改修しました。 関ヶ原の戦いで花房氏は主君に反して東軍に属したため、江戸時代には旗本に取り立てられました。 数年はここに陣屋を構えていましたが、備中国阿曽に移ったため廃城となりました。 |
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高松城址公園資料館 三の丸跡 湿地が迫ります 二の丸跡は位置が不明瞭です 湿地には宗治蓮が一面に咲いています 橋の向こう側が本丸跡 本丸部分はしっかりとした陸地です 清水宗治の首塚があります 水攻め築堤跡(地図) |
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