屋山城の図
所在地 大分県豊後高田市加礼川(八面山) 屋山城のブログ 訪問日 2020年1月12日

屋山城の鳥観図

◆歴史◆

大友一門・吉弘氏の城でした。

吉弘氏は大友一門・田原氏の庶流です。
元々は国東半島東部の武蔵地域にある吉広城を本拠としていました。
1435年にあった姫嶽合戦の頃から、都甲地区に移ったとされます。
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※姫嶽合戦
1431年、大友持直が少弐満貞とともに大内盛見を討ち取りました。
その結果室町幕府から討伐を受け、大友持直は姫嶽城(臼杵市)に籠城。
姫嶽城は落城し、大友持直は消息不明となりました。
この時に大友家中が幕府方と反幕府方に分裂しました。
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その目的は、六郷満山の頂点・長安寺の掌握です。
六郷満山とは「国東半島にある6つの郷の寺院全て」という意味です。
吉弘綱重は大友親綱に従っていました。
大友持直に従った都甲氏が没落し、その領地を与えられたようです。
1437年に長安寺に対して発した『吉弘綱重安堵状』が残っています。
以後、吉弘氏が代々長安寺の別当職を務めて支配下に収めました。

築城年代は諸説あり、1530年代と考えられています。
築城者は吉弘親信またはその子・吉弘氏直のどちらかと考えられています。
この時代は、大内軍と豊前を巡り激しく争っていました。
吉弘親信は1532年、吉弘氏直は1534年に大内軍との戦で戦死しています。

1579年、吉弘統幸が大改修を行いました。

1578年、耳川の戦で吉弘鎮信が戦死し、吉弘統幸が家督を継ぎました。
その直後に、国東半島で田原親宏が挙兵するという大事件が起きます。
吉弘統幸は田原軍と対峙するため、屋山城に大改修を加えました。
田原親宏は出陣直前に急死したものの、田原親貫が謀反を継続しました。
この謀反の鎮圧で吉弘統幸は活躍し、朝鮮出兵では朱槍を許されました。
しかし1593年、大友義統が敵前逃亡で改易され、領地を失いました。
吉弘統幸は、従兄弟の立花宗茂(父の弟・高橋紹運の子)に仕えました。

1600年、黒田軍に攻め落とされました。

関ヶ原の戦で、大友義統は伊豆を抜け出して豊後に上陸しました。
これは、豊臣方から大名として再興すると約束されたからでした。
合流した吉弘統幸は東軍につくよう説得しましたが、却下されます。
それでも行動を共にし、集まった大友旧臣を指揮します。
この動きに反応したのが黒田如水で、別府市の石垣原で戦となりました。
吉弘統幸と宗像鎮続が指揮する大友軍は、一時は黒田軍を圧倒しました。
しかし、兵力差は覆らず、両名とも討ち取られました。
大友義統は黒田軍に降伏し、大友家再興の戦は終わりました。
その後、大友軍の残党が屋山城に立て籠もりました。
そのため、黒田軍に攻め落とされました。
すぐ下にある長安寺も、巻き添えを食って焼かれてしまいました。
以後、屋山城は城として使われる事は無かったと思われます。

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