鮫ヶ尾城
所在地:新潟県妙高市雪森
2018年4月30日更新(訪問日:2015年8月3日) | |||
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◆概要◆ 築城年は不明ですが、永正から天正までの間(1504〜93年の間)に、春日山城主の長尾氏(のち上杉氏)が北国街道防御を目的に築いたとされています。 永正の頃の越後では、越後守護・上杉房能と守護代・長尾為景が激しく争っていました。 上杉房能は実兄の関東管領・上杉顕定と連携したため、長尾為景は本拠・春日山城の南側の防御を固める必要がありました。 1509年には上杉顕定が関東から大軍を率いて越後に攻め込み、長尾為景は一時越中へ逃れています。 この逃亡中に信濃や陸奥、さらには幕府に働きかけて越後奪還の機を窺い、翌1510年に逆襲に転じて長森原の戦で上杉顕定を討ち取り、越後を奪い返しています。 その後、1550〜70年代にかけては、長尾為景の子・上杉謙信が武田信玄との間で戦を繰り返しています。 春日山城から戦場となった川中島へ向かうルート上に、鮫ヶ尾城は位置しています。 この年代に春日山城をはじめとする上越周辺の城が盛んに整備されているため、この頃に築城されたとする説もあります。 鮫ヶ尾城が史料に登場するのは、上杉謙信が没した後に起きた1578〜79年の御館の乱の時です。 鮫ヶ尾城には上杉景虎方の堀江宗親が入っていました。 堀江宗親は前年まで加賀の津幡城主を務めており、織田信長との戦いでは最前線を任されていた武将です。 御館が上杉景勝により攻め落とされると、堀江宗親は上杉景虎の実家である後北条氏の関東へ通じる鮫ヶ尾城へ招き入れました。 しかし、堀江宗親はこの時既に上杉景勝方に寝返っており、城内で上杉景虎とその妻子を自害に追い込みました。 これにより家督争い自体は終結したのですが、乱が治まると堀江宗親は領地を没収され、その後の消息がわからなくなります。 発掘調査の結果、米蔵跡からは焼けた米などが出土していますが、その後再利用された形跡が無いため、この時に廃城になったものと考えられています。 上杉謙信時代に整備された城の姿を留めていることから貴重な遺構であるとされ、2017年4月6日には続日本百名城に選出されました。 |
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現地案内図の城跡部分 |
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上杉景虎終焉の地の幟 駐車場にある案内図 右の図で大体ルートが掴めました 斐太神社 遺跡メインですが城跡の案内もあります 上杉景虎と御館の乱の説明板 そのまま奥へ進むと北登城道の入口に ここで南北2つのルートがあると把握 淡水魚の池の脇を通って南ルートへ |
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公園の管理棟脇を奥に進むと、北登城路の入口がありました。 単純に本丸見て帰るだけなら、こちらの方が手っ取り早いかもしれません。 案内図をよく見てみると、南登城路には沢山の堀が描かれていますが、北登城路は城内に入るまでほぼ何もありません。 ということで、城キチ的には遺構盛り沢山の南登城路がおススメです。 | |||
登城路はこんな感じの緩斜面です 大堀切6(近くにプレートがあります) すぐ近くにねじれた虎口があります 大堀切5 堀切6 やっと上の図の一番下です 大堀切1 ここで北登城路と合流 すぐ上が二の丸です そのまたすぐ上に東屋が見えます 本丸 城址碑 本丸のすぐ裏にも堀切があります 北登城路は上信越道の下を潜ります |
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