大和郡山城
所在地:奈良県大和郡山市城内町
2019年1月2日更新(最終訪問日 2018年12月22日) | |||
|
|||
◆概要◆ 1580年に大和国の主となった筒井順慶が、小規模な砦を改修して居城としました。 その後、1585年に豊臣秀長が大和・和泉・紀伊三ヵ国100万石余の領主となり、大和郡山城に入りました。 豊臣秀長は100万石の居城に相応しい大規模なものに拡大し、新たに七重の天守の建造も開始しました。 しかし、大和は石材が乏しい国であったため、天守台の石垣には墓石や石地蔵まで用いられています。 関ヶ原の戦の後、徳川家康により大和郡山城の建築物は伏見城に移築されました。 城は奈良奉行所の管轄下に入り、大久保長安が在番しました。 大坂夏の陣後は大いに軍功のあった水野勝成が三河刈谷から移り、城郭の修築を行いました。 以後、松平家や本多家を経て1724年に柳沢吉里が甲府城から移り、以後明治まで柳沢氏が城主を務めました。 明治維新後に廃城令により廃城とされ、1873年に破却されました。 このとき櫓・門・塀などの建築物は全て解体されたものの、石垣や堀の多くは今も往時の姿を留めています。 付近の永慶寺には、城門がお寺の山門として移築され現存しています。 城跡には遺構の他に、柳沢家初代郡山藩主吉里の父・吉保を祀る柳澤神社、柳沢家時代の史料を保管する柳澤文庫(毘沙門曲輪)、市民会館(常盤曲輪)、郡山高校(二の丸屋形跡)等があります。 1980年には築城400年を記念して追手門(梅林門)、追手向櫓、東隅櫓、多聞櫓が復元されました。 |
|||
![]() 天守台の説明板に載っている古図(文字を書き加えています) |
|||
|
|||
![]() 追手門 ![]() 追手向櫓 ![]() 東隅櫓 ![]() 石垣 ![]() 石垣 ![]() 石垣 ![]() さかさ地蔵 ![]() 天守台 ![]() 柳澤神社 ![]() 北側の土塁 ![]() 追手東隅櫓 ![]() 追手東隅櫓脇の多聞櫓 ![]() 天守台脇の内堀 ![]() 内堀 ![]() 柳沢文庫 ![]() 土橋 ![]() 新しい城址碑 ![]() 柳澤神社 ![]() 柳澤神社から見た天守台 ![]() 天守台から見た北西側の内堀 ![]() 竹林門跡 ![]() 裏門跡 ![]() 南御門跡 ![]() 鷺池 ![]() 内堀の南東角から見た追手東隅櫓 ![]() 大納言塚 ![]() 外堀跡(大職冠裏池跡) ![]() 外堀跡に沿って石碑があります ![]() 北東側の外堀跡 ![]() 外堀緑地北門(JR郡山駅前) |
|||