十市城

所在地:奈良県橿原市十市町
2011年10月9日(訪問日:2011年8月3日)

◆概要◆


大和国では大名ではなく、興福寺が守護職を務めていました。 興福寺は荘園を在地の武士に経営させていましたが、後に彼らは「衆徒」「国民」と呼ばれるようになりました。 「衆徒」は興福寺に属する僧であり、代表的な存在が筒井氏・古市氏などでした。 一方、「国民」は春日大社から任じられた末社の神主で、代表的な存在が越智氏・十市氏などでした。 彼らは大和四家と呼ばれ、大和の国人衆を代表する存在でした。 大和国は地理的に京と河内国に挟まれており、幕府管領の畠山氏や細川氏、三好氏らの内訌に常に巻き込まれることがたびたびありました。 その中で、16世紀前半の当主・十市遠忠は、河内国から勢力を拡大した木澤長政、木澤長政と組んだ筒井順昭らと争って勢力を拡大し、十市氏の最盛期を築き上げました。 十市遠忠は武勇だけでなく歌道・書道にも通じており、やがては大和一国を手中にするのではないかと目されていましたが、志半ばで病没しました。 木澤長政に代わって松永久秀が大和国に進出してくると、大和国最大の国人となった筒井氏は松永氏と争いました。 大和国内の国人達はそれぞれ松永派と筒井派に分かれて争いましたが、十市家中は両派に分裂。 その間、十市郷には筒井派が入りましたが、松永派の越智氏に攻められました。 その後形勢が逆転して筒井氏優勢となりましたが、十市郷は3分割され、十市氏の領地は以前の1/3になってしまいました。 その1/3を松永派と筒井派で分け合ったため、十市氏の勢力は以前とは比べ物にならない程に没落してしまいました。 十市城は水田の真ん中の微高地にある平城でした。 城の遺構は何も無く、ただ石碑だけがそこに城があったことを物語っています。
十市城 城址碑
城址碑
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