梅北城の図
所在地 宮崎県都城市梅北町 梅北城のブログ 訪問日 2018年1月1日

梅北城の説明板


梅北城の図
◆歴史◆

平安時代に平李基により築かれたと伝わります。

平李基は大宰大監として、日本最大級の島津荘を開拓した人物です。
1026年に神柱大明神を造営してその祠官を務めている事から、この時の築城と考えられます。
その後は平李基の娘婿で肝付氏の祖・伴兼貞が継ぎ、梅北はその5男・兼高が継ぎました。
以後、兼高は地名から梅北姓を名乗るようになり、以後梅北を統治します。

南北朝時代に畠山直顕の城となりました。

畠山直顕は北朝方の武将で、1338年頃に日向に下向したと思われます。
日向では土持氏や日下部氏を味方に付け、南朝方勢力を駆逐しています。
梅北氏は本家の肝付氏同様南朝方であったため、この頃に梅北を追われたものと思われます。
畠山直顕は梅北城を居城にしたかもしれないと、説明板には書かれています。

1351年、北郷氏の城になったと思われます。

畠山直顕は観応の擾乱では足利直義に味方し、島津氏久と争いました。
1357年には島津貞久と戦って志布志で敗れ、同年、菊池武光にも大敗を喫しました。
この事により兵力と求心力を一気に失い、豊後へと落ち延びました。
島津貞久は1351年に都城を畠山直顕から奪い、弟の北郷資忠に与えています。
その後、畠山直顕は島津軍や菊池武光の遠征軍に敗れ、1358年に豊後へ落ち延びました。

1459年、島津羽州家の城となりました。

島津忠国が弟の島津有久に与えました。
この頃の北郷氏は、1453年に大覚寺義昭事件で義昭を匿った罪で領地を没収されていました。
島津有久は出羽守の官位を与えられたため、島津羽州家と呼ばれるようになります。

1494年、新納忠武の城となりました。

この頃の都城周辺は、北郷氏、北原氏、新納氏、島津豊州家が争っていました。
この勢力図が複雑過ぎて( ゚∀゚)アハハな感じです
たまたまこの年代の北郷氏当主・北郷数久をググったら、梅北城を奪ったと書かれていました。
この時は新納忠武とつるんで島津忠明を攻めており、城は新納氏のものとなっています。
島津忠明は後に大口へ移っていますが、この時領地を失った事が原因だったんですね!

1538年、北郷忠相の城となりました。

北郷数久は新納忠武を仲が良かったようですが、子の代はそうでもないようです。
1528年に新納忠勝が伊東軍に攻められた時、新納忠勝は北郷忠相に助けを求めました。
しかし、北郷忠相は伊東軍と共に新納忠勝を攻めています。
両家が決定的に対立したのは、この時からと思われます。
北郷忠相は伊東家中が不安定な事を見透かすと、伊東領の三俣院を攻め取りました。
その勢いに乗じて新納忠勝領にも攻め込み、梅北城を奪いました。

その後、島津豊州家の城となります。

1546年に島津豊州家で跡継ぎが無くなると、北郷忠親自身が養子として豊州家を継ぎました。
北郷家は子の北郷時久に継がせたため、実質的には1つの家となりました。
島津豊州家は伊東義祐の度重なる侵攻に悩まされますが、都城を守り切っています。

1595年、伊集院忠棟の城となりました。

太閤検地実施後、島津家中では大規模な配置換えがありました。
この時に都城一帯は伊集院忠棟の領地となり、北郷氏は祁答院へ移されました。
1599年、伊集院忠棟が島津忠恒に斬殺されると、子の伊集院忠真が反島津の兵を挙げました。
この乱は「庄内の乱」と呼ばれ、1年近く続きました。
この時に梅北城は「庄内十二外城」の1つに数えられ、日置善左衛門らが守りました。

1599年、北郷忠能の城となりました。

北郷氏当主・北郷忠能は幼少だったため、叔父の北郷三久が庄内の乱で陣頭指揮を執りました。
北郷氏は伊集院忠棟に奪われた旧領を取り戻そうと、凄まじい戦いを見せました。
そのため、乱が終わると都城一帯が北郷氏に返還されました。

1615年、一国一城令により廃城となりました。

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