加久藤城の図
所在地 宮崎県えびの市加久藤 加久藤城のブログ 訪問日 2017年12月30日
◆歴史◆

応永年間(1394〜1428年の間)に、北原氏により築かれました。

北原氏が徳満城の支城として「久藤城」を築きました。
これが加久藤城の前身となります。
この年代にあった出来事は、北原氏・相良氏両家の当主が徳満城で刺し違えています。
・・・サラッと書きましたが、かなりの大事件ですw
地図で見ると、相良氏の勢力圏である人吉がすぐ北にありました。
その入口に徳満城があるので、北からの侵攻に備えたという事のようです。
これが1396年の出来事で、北原氏はこの事件を機に島津家に近づくこととなります。

1564年、島津義弘がココに移って来ました。

1558年から1562年にかけて、北原氏の家督を巡るゴタゴタがありました。
はじめは伊東義祐が北原氏を乗っ取りました。
しかし、同年内に北原氏旧臣が中心となって北原兼親を当主とし、北原家を再興しました。
ところが、北原兼親は人の上に立つ資質があまり無かったようで・・・
出奔する家臣が相次いだため、島津貴久は北原兼親を薩摩国の伊集院へ移しました。
その後の真幸院は島津義弘が領主となりますが、前段階で久藤城に入りました。
島津義弘は中城と新城を加えて改修し、「加久藤城」と改名しました。
北原兼親が退去すると島津義弘が飯野城に移り、加久藤城には妻子を住まわせました。

1572年、伊東軍に攻められました。

伊東義祐は飯野城の島津義弘を攻めました。
この前年に島津貴久が没しており、伊東義祐は肝付兼亮とともに島津領へ侵攻しました。
この時の兵力は、伊東軍3000人に対し、飯野城が300人、加久藤城が50人でした。
島津義弘は策略で加久藤城の最も守りの堅い鑰掛口を攻めさせて、伊東軍を撃退。
この時に伊東杢右衛門や米良重方など、伊東軍の名だたる武将を討ち取っています。
島津義弘は大河平に大量の幟を立てたため、警戒した相良軍は手を出しませんでした。

撤退した伊東軍が川内川の支流・池島川で休息している所を島津軍が奇襲。
さらに、伊東軍が高原城へ退却する所も襲撃して、釣り野伏により島津軍が大勝しました。
一連の戦いを「木崎原の戦」と呼び、「九州の桶狭間」として語り継がれています。

この時に加久藤城を守っていたのは川上忠智でした。
川上忠智の子は、1584年にあった沖田畷の戦で龍造寺隆信を討ち取っています。

1615年、一国一城令により廃城となりました。

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