百地丹波城
所在地:三重県伊賀市喰代
2013年1月12日(訪問日:2011年8月5日) | |
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◆概要◆ 築城年代は不明ですが、1544年の史料に登場します。 伊賀国は単独の支配者が不在の時代が長く、小勢力がお互いに争ったり合議したりしてきました。 忍者で有名な伊賀では百地氏、千賀地氏(服部氏)、藤林氏が上忍三家として力がありました。 三家とも詳細は不明ですが、家紋の矢ちがい矢羽根が共通しており、同族である可能性があります。 有名な百地三太夫でさえ、百地丹波守と同一人物という説や丹波守の孫だという説などがあり不明な点が多いです。 これは江戸時代に書かれた忍術書「萬川集海」に「人知ることなくして功者なるを上忍」とあり、忍者としては当然の事なのかもしれません。 1579年に織田信雄が伊賀に侵攻した第一次天正伊賀の乱や、その2年後の織田信長による第二次天正伊賀の乱で陣頭指揮を執っていたと伝わっていますが、 柏原城開城後の消息は不明です。 この乱以後、地元では「百地」の発音が「血」を連想させるということで、「ももじ」と発音されるようになりました。 城砦は丘陵の地形を利用し、東西に約250メートル、南北に約60メートルに渡って4つの郭を連ねています。 本丸は土塁が高く南北に屈曲した虎口を設けており、特に防御に適した構造になっています。 |
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説明板に載っている図 |
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説明板と城址碑 堀跡と見られる丸形池 南虎口 |
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