北畠氏館
所在地:三重県津市美杉町下多気
2018年11月26日更新(最終訪問日 2018年11月23日) | |||
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◆概要◆ 北畠氏は村上源氏の流れをくむ名門で、中院雅家が洛北の北畠に住んで北畠姓を名乗ったことに始まります。 鎌倉時代後期の北畠親房は、後醍醐天皇による建武の新政を支えて南朝の軍事的指導者となりました。 北畠親房の長男・顕家は陸奥守に任じられ、次男・顕信とともに南朝方の重鎮として足利尊氏と戦いました。 三男・北畠顕能は伊勢国司に任じられ、伊勢北畠氏の祖となりました。 任地に赴いた北畠顕能は、父・親房、兄・顕信とともに玉丸城を中心に南朝方の拠点構築に力を注ぎました。 しかし、北朝方の足利義直・高師秋らの攻撃たびたびを受け、1342年には本拠・玉丸城が落城してしまいました。 そのため、山間部にある要害の地・多気に館を築いて霧山城を詰城とし、以後はこの地が伊勢北畠氏の本拠となりました。 225年にわたって北畠氏による伊勢統治の中心地となりましたが、1569年に織田信長の侵攻を受け降伏に近い形で和睦しました。 その後、織田信長の命令により、8代目の北畠具教が隠居地である三瀬谷で暗殺されました。 同時に多気御所および霧山城も攻め落とされ、廃城となりました。 江戸時代のはじめ頃に北畠氏の末裔・鈴木孫兵衛家次が、畑となっていた館跡地に小祠を設けて北畠八幡宮としました。 現在も北畠神社として祀られており、7代目の北畠晴具の代に細川高国により造られた庭園がとても有名です。 |
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説明板の図 |
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駐車場脇にある説明板 北畠神社の鳥居 霧山城への登山口 北畠顕家像 日本最古の石垣の説明板 館跡 館跡 庭園(外から) 霧山城への登城路 詰城の腰曲輪(登城口から6分) 詰城の曲輪 登城路奥から見た詰城 詰城の先は土橋状 登り坂が続きます 途中にある曲輪っぽい所 更に登り坂が続きます 谷間を登る道 谷間を登り切った所(登城口から22分) 上が見えてきました 鐘突堂の下 上が鐘突堂、右の道が霧山城へ続きます 鐘突堂の曲輪 霧山城跡はもう目の前 霧山城中央の堀切(登城口から30分) 北側の曲輪(矢倉跡) 矢倉北側の堀切 中央の堀切から見た主郭 主郭の虎口 土塁に囲まれた主郭 城址碑 |
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