津城

所在地:三重県津市丸之内町
2018年11月25日更新(最終訪問日 2018年11月23日)

◆概要◆


津城は別名・安濃津城とも呼ばれており、戦国時代に長野氏の一族・細野藤敦により築かれました。 長野氏は安濃を本拠とする北朝方の有力国人で、南朝方の北畠氏とは長年対立してきました。 1558年、北畠具藤を嗣子に迎えることで両家は和解し、細野氏は北畠氏に臣従するようになりました。 安濃津城が築かれたのは丁度その頃であると考えられています。 それからおよそ10年後、織田信長が伊勢への侵攻を開始しました。 最初に標的にされたのは長野氏で、細野藤敦は滝川一益の軍勢を退けるなど奮戦しました。 しかし、織田軍の流した流言を信じた長野具藤が細野藤敦を攻めたため撃退。 長野具藤は実家である北畠氏の館へ逃げ込みました。 長野氏も激しく抵抗しましたが、織田信長の弟・信包を嗣子として迎えることで和睦したため、細野氏もこれに従いました。 新たに長野氏の当主となった織田信包は津城を居城とし、大改修を加えて総石垣造りの城としました。 織田信包は織田信長が生存中は甥の織田信忠・信雄兄弟に次ぐ地位にありましたが、本能寺の変後は羽柴秀吉に従いました。 1590年にあった小田原征伐の際、後北条氏の助命嘆願をしたことで豊臣秀吉の不興を買い、丹波・柏原へ移されました。 津城は織田信包に代わり、豊臣秀吉家臣・富田一白が城主となりました。 関ヶ原の戦いでは子の富田信高が東軍に属しました。 そのため西軍の毛利秀元や長曽我部盛親ら3万の軍勢に包囲されましたが、城兵は1000人余りと少なく、最終的には木食上人の仲介により開城しました。 籠城戦で富田信高は絶体絶命の窮地に陥ったことがありましたが、その時に富田信高の妻が敵兵を次々討ち取って救った話は有名です。 戦後、この時の奮戦が認められて2万石の加増を受けています。 富田信高が伊予・宇和島へ移されると、藤堂高虎が伊勢・伊賀22万石の領主として城主となりまりた。 藤堂高虎も城に大改修を加え、本丸と東丸・西丸の周囲に堀を巡らせ、二の丸を加えた輪郭式に改めました。 藤堂高虎は伊賀上野城を戦闘向きの城、津城を平時の居城として使い分けていました。 その後、明治維新まで津城は藤堂氏の城でしたが、廃藩置県で廃城となり、建築物は破却され外堀は埋められて市街化の波に呑まれました。 現在は本丸と内堀の一部が残っており、「お城公園」として整備され模擬三重櫓も建てられています。
津城 図
説明板の図

津城 図
説明板の図 @本丸A西之丸B東之丸C内堀D二之丸E外堀

●続日本百名城スタンプ設置場所●


津城 スタンプ
高山神社社務所
開いている時間:
9時〜16時
スタンプは常時押印可です
津城
この辺りが外堀でした
津城
本丸南東部の石垣
津城
本丸東側の石垣(復元)
津城
本丸北東部の三重櫓
津城
本丸北東部の櫓台
津城
本丸北側の水堀と石垣
津城
本丸北西側部と西之丸の石垣
津城
西之丸の石垣と水堀
津城
二之丸跡にある津市役所
津城
お城西公園の西側
津城
西之丸の石垣と水堀
津城
西之丸の南西部
津城
西之丸の南側
津城
西之丸の門跡
津城
西之丸の門跡
津城
入徳門(藩校の移築正門)
津城
西之丸にある「日本庭園」
津城
西鉄門跡
津城
本丸北側の石垣
津城
本丸内から見た三重櫓
津城
本丸北側の石垣の上
津城
本丸内部
津城
藤堂高虎像
津城
本丸南西の櫓台
津城
本丸南側の門跡(内側)
津城
本丸南側の門跡(外側)
津城
本丸南西の櫓台<
津城
高山神社社殿
津城
高山神社社務所
津城
本丸南東側
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