淀古城

所在地:京都市伏見区納所北城堀
2011年8月23日(訪問日:2011年8月4日)

◆概要◆


淀古城は宇治川と桂川が合流する地点にあり、摂津と山城をつなぐ水陸の交通の要衝でした。 両川を天然の堀とした要害であり、槇島城と並んで山城国洛南の軍事拠点の一つでした。 淀城は応仁の乱の際に山城国守護・畠山政長が西軍の畠山義就に備えるために築いたとされます。 山城国を細川氏が掌握すると、摂津・河内への備えの城として機能し、後に細川氏と畠山氏、三好三人衆、松永久秀、織田信長らによる激戦地となりました。 豊臣秀吉の時代となると、側室・茶々の産所として改修し、以後茶々は「淀殿」と呼ばれるようになりました。 この時に生まれた鶴松は3歳で早世したため、豊臣秀吉は甥の豊臣秀次を養子としました。 しかし、淀殿が豊臣秀頼を産むと豊臣秀吉と豊臣秀次の仲が険悪となり、豊臣秀次は謀反の疑いをかけられて自害に追い込まれました。 その際、豊臣秀次の家老で淀城主の木村重茲も連座させられ廃城となりました。 江戸時代に約500メートル南に「淀城」が築かれたため、こちらは「淀古城」と呼ばれるようになりました。 現在は宅地化が進んで城の遺構は無くなり、城であったとされる妙教寺境内に石碑があるのみです。
淀古城 妙教寺山門
妙教寺山門
淀古城 妙教寺の境内
妙教寺の境内
淀古城 城址碑
城址碑
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