獅子ヶ谷城

所在地:神奈川県横浜市鶴見区獅子ヶ谷
2017年3月20日更新(訪問日:2011年9月24日)

◆概要◆


獅子ヶ谷城は、武田氏滅亡後から徳川家康に仕えた小田切光猶により1597年に築かれたとされます。 当地は師岡郷と呼ばれ、水田に囲まれた丘を利用して築かれています。 ただし、築城された年代にしては土塁や堀などの遺構が不明瞭なため、古い時代に築かれた城跡を屋敷の詰めの城としたのではないかと考えられています。 師岡の歴史を調べてみると、平安時代末期に師岡重経という人物が師岡郷を領していたことに行き当たります。 師岡氏は秩父一族であり、武蔵を知行国とする平知盛(平清盛の四男)の配下でした。 他の秩父一族同様、源頼朝が挙兵した際は平家方でしたが、安房で再起後の源頼朝の御家人となりました。 戦では源義経と行動することが多かったため親しくなり、兄・河越重頼の娘が源義経に嫁いでいます。 しかし、源義経とともに後白河法皇からの任官を受けたため源頼朝の怒りを買い、この時に師岡氏は所領を没収されたものと考えられています。 その後に師岡郷に入ったのが武藤頼平と考えられます。 武藤氏は武蔵を本拠とする藤原北家で平知盛に仕え、そののち源頼朝に仕えました。 武藤頼平については不詳ですが、墓が師岡郷にあったことから、師岡氏の退去後に所領として師岡郷を与えられたと考えられます。 平家滅亡後に養子の武藤資頼が大宰府の少弐職に任ぜられて九州へ移り、肥前、筑前、豊前、壱岐、対馬の守護となって少弐氏を名乗るようになりまし。 その後の師岡郷についてはわかりません。 小田切光猶の子・須猶が江戸へ移る際、屋敷の一部を横溝五郎兵衛に譲り、以後は横溝氏が師岡の名主となりました。 横溝氏の屋敷は現存しており、横浜市の市指定有形文化財第1号として無料で公開されています。 横溝氏は獅子ヶ谷城のことを「御薗城」と呼んだため、小田切氏が入部する前は御薗氏が居城としていたのかもしれません。
獅子ヶ谷城 横溝屋敷
横溝屋敷
獅子ヶ谷城 入口
裏山の入口(9時半〜16時半通行可)
獅子ヶ谷城 城跡
城跡
獅子ヶ谷城 土塁
土塁
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