笹下城

所在地:神奈川県横浜市港南区笹下4丁目
2017年3月20日更新(訪問日:2011年9月24日)

◆概要◆


笹下城は後北条氏家臣・間宮信盛の子・信元により築かれました。 間宮氏は近江佐々木氏を祖とし、鎌倉時代に関東へ移って来ました。 間宮氏は川崎にあった堀之内城を居城としていましたが、後北条氏が相模に勢力を拡大してくると早い時期から従いました。 1510年にあった権現山の戦では、間宮信冬またはその子・信盛が派手な鎧を着飾り「我こそ神奈河の住人間宮の某」と叫びながら、上杉軍2万の軍勢に斬り込んだと伝わります。 その勇猛な戦いぶりから、以後相模衆十四家筆頭に取り立てられ、杉田郷(現在の横浜市磯子区)へ移りました。 杉田郷は横浜の南側に位置し、三浦半島の付け根に当たります。 間宮氏は玉縄城の北条綱成の軍団に属して、安房の里見氏に対する警備を担いました。 杉田郷は笹下城を本城として、北に松本城、屏風ヶ浦に森陣屋、杉田に杉田陣屋、その南に氷取沢陣屋などの出城を築きました。 間宮信盛の子がそれぞれの出城を守り、やがてそれぞれが庶流となりました。 1590年にあった豊臣秀吉による小田原征伐の際に、間宮信元の嫡男・康俊は主将・松田康長とともに山中城を守備しました。 城兵のおよそ20倍の豊臣軍を相手に奮戦したことから、徳川家康は生き残った間宮一族を配下に加えました。 やがて子孫の中から樺太探検で有名な間宮林蔵や、解体新書を著した杉田玄白等を輩出しています。 笹下城周辺は十分な発掘調査が為されないまま住宅街となったため遺構はありませんが、周辺の地形がかつて城があった事を偲ばせます。
笹下城 成就院
城跡にある成就院
笹下城 成就院
成就院本堂
笹下城 土盛り
墓地にある巨大な土盛り
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