衣笠城

所在地:神奈川県横須賀市衣笠町
2017年3月10日更新(訪問日:2011年5月3日)

◆概要◆


前九年の役(1051〜62年)での戦功により源頼義から相模国三浦に領地を与えられた三浦氏の祖・三浦為通が、衣笠山に城を築きました。 4代目・三浦義明は伊豆で反乱を起こした源頼朝を支援しましたが、源頼朝は石橋山の戦いで平家方に敗北し、房総半島へ落ち延びました。 その後、平家方の畠山重忠が衣笠城に攻め寄せ落城し、城主・三浦義明は討死し、三浦一族は房総半島へ逃れました。 鎌倉時代には三浦氏の本拠地となりますが、宝治合戦(1247年)で三浦氏が北条氏に滅ぼされ廃城となりました。 現在、曲輪や土塁が現存し、館跡には大善寺があります。(現地案内板より)

山麓の右を流れる大谷戸川と左手の深山川に挟まれ東に突き出た半島状の丘陵一帯が衣笠城跡です。 源頼義に従って前九年の役に出陣した村岡平太夫為通が戦功によって三浦の地を与えられました。 要害堅固の地に両川を自然の堀として康平年間(1058〜64)に築城したといわれ、以後為継、義継、義明の4代にわたり三浦半島経営の中心地となりました。 治承4年(1180)8月源頼朝の旗揚げに呼応したため平家側の大軍に攻められた攻防戦は「衣笠合戦」と呼ばれます。 丘陵状の一番裾が衣笠城の大手口で、ゆるやかな坂を登って滝不動に達します。 居館は水の便の良いこの附近の平場にあったと推定され、一段上に不動堂と別当大善寺があります。 さらに、その裏山がこの城の最後の拠点となる詰城であったと伝わる平場で、金峯山蔵王権現を祀った社が存在しました。 また、その西方の最も高い場所に物見岩と呼ばれる大岩があり、その西が急峻な谷になっています。 要害の地形を利用して一部に土塁や空堀の跡が残っています。 このように、この地一帯は平安後期から鎌倉前期の山城で、鎌倉時代の幕明けを物語る貴重な史跡です。
衣笠城 物見岩と城址碑
物見岩と城址碑
衣笠城 曲輪跡
曲輪跡
衣笠城 土塁
土塁
衣笠城 図
案内図
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