河村城

所在地:神奈川県足柄上郡山北町山北
2017年3月9日更新(訪問日:2010年6月26日)

◆概要◆


平安時代末期に秀郷流藤原氏の河村秀高により築かれたと伝わります。 北は旧皆瀬川、南は酒匂川により囲まれた通称「城山」と呼ばれる標高約225m、比高約130mの独立丘陵上にありました。 源平の戦いで河村氏は平氏側に味方したため、戦後領地を没収されました。 その後、鎌倉での流鏑馬の妙技により復帰できたと『吾妻鏡』には記されています。 南北朝時代に河村氏は松田氏とともに南朝側に味方し、新田氏とともに活躍しました。 北朝側の足利尊氏により鎌倉が攻められると、河村氏は新田義興とともに河村城に篭城しました。 しかし、1353年に南原の戦で敗れ、河村氏は滅亡しました。 その後は畠山国清や関東管領・上杉憲実を経て、大森憲頼の城となっています。 北条早雲が小田原城を奪取した頃からは、後北条氏の支配を受けるようになったと考えらています。 駿河・甲斐との国境に近く、三国同盟が破綻してからは武田信玄との小競り合いが続きました。 そのため1570〜73年頃に大規模な補修がなされました。 1590年に後北条氏が滅びた時に廃城となったと考えられています。 近年までみかん畑となっていましたが、現在は河村城祉歴史公園として整備されており、本丸やその他の郭、畝掘などの遺構が見られます。
河村城 図
案内図
河村城 堀
入ってすぐの所にある大きな堀
河村城 畝堀
上からみると畝堀となっています
河村城 本城郭
本城郭
河村城 城址碑
城址碑
河村城 茶臼郭
堀越しに見た茶臼郭
河村城 木橋
本城郭と蔵郭の間にある木橋
河村城
訪問時はまだ整備中でした
河村城 堀
蔵郭と近藤郭の間の大きな堀
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