鎌倉

所在地:神奈川県鎌倉市
2017年3月26日更新(訪問日:2013年11月9日)

◆概要◆


1192年に源頼朝が鎌倉幕府を開いてから1333年に新田義貞に攻め落とされるまでの間、鎌倉が日本の中心でした。 市内には歴史的に貴重な場所に石碑が建てられているので、その中の一部をご紹介します。
大蔵幕府旧跡
鎌倉市雪ノ下(清泉小学校) 地図
鎌倉 大蔵幕府旧跡
西御門跡の碑
鎌倉 大蔵幕府旧跡
大蔵幕府旧跡の碑
鎌倉 大蔵幕府旧跡
東御門跡の碑
源頼朝が1180年にこの地に館を築いてから1225年に北条政子が没するまでの間、ここで鎌倉幕府の政治が行われました。
宇都宮辻幕府旧跡
鎌倉市小町2丁目(宇都宮稲荷神社) 地図
鎌倉 宇都宮辻幕府旧跡
宇都宮辻旧跡の碑
1225年に幕府創設の功臣・大江広元や初代将軍・源頼朝の正室・北条政子が相次いで没すると、3代執権・北条泰時は幕府をこの地に移し気分一新を図りました。 それまでの独裁先制的な体制を廃し、11人の評定衆と2人の執権による合議制に改めました。 御成敗式目を制定したのも北条泰時です。 しかし、北条泰時の身の回りで不幸が相次いだほか、天候不順による飢饉や寺社勢力の争いなど世の中が乱れたため、1236年に若宮大路へ幕府を移しています。
若宮大路幕府旧跡
鎌倉市雪ノ下1丁目 地図
鎌倉 若宮大路幕府旧跡
若宮大路幕府旧跡の碑
1236年、3代執権・北条泰時が二度目の幕府の移転をしました。 以後、1333年に新田義貞により鎌倉幕府が滅ぼされるまで、この地で政治が行われました。
源義朝邸跡
鎌倉市扇ガ谷1丁目(寿福寺) 地図
鎌倉 源義朝邸跡
寿福寺
鎌倉 源義朝邸跡
源氏山の碑
源氏代々ゆかりの地・源氏山の麓にあり、源義朝もこの地に館を築いていました。 源義朝が平治の乱に敗れ家臣に裏切られて非業の死を遂げると、岡崎義実が菩提を弔うために堂宇を建てました。 その後、源義朝の子・頼朝が鎌倉を制圧した際には、この地に館を築こうとしたそうです。 しかし、父の菩提を弔う堂宇があったことと、やや手狭だったこともあり、大蔵に幕府を開きました。 その後、源頼朝が没した翌年の1200年に、北条政子により寿福寺が開基されて現在に至ります。
北条執権邸旧跡
鎌倉市小町3丁目(寶戒寺) 地図
鎌倉 北条執権邸旧跡
北條氏九代屋敷の碑
鎌倉 北条執権邸旧跡
北條執権邸旧跡の碑
鎌倉 北条執権邸旧跡
寶戒寺の参道
鎌倉幕府の2代目執権・北条義時が築いた小町邸がココです。 北条義時は独裁専制色を強めつつあった父・北条時政を1205年に追放し家督を継ぎました。 北条氏は幕府を2度移転させていますが、いずれもそのすぐ近くに館を構えました。 1333年に新田義貞により鎌倉幕府は滅ぼされ、この時に北条氏の館も焼失しました。 新田義貞と争い鎌倉を手に入れた足利尊氏は、最後の執権・北条高時が怨霊となって世を乱さぬよう、この地に北条氏の菩提寺である東勝寺を移し、寶戒寺と名を改め菩提を弔いました。
足利公方邸旧跡
鎌倉市浄明寺4丁目 地図
鎌倉 足利公方邸旧跡
場所はわかりづらいです
鎌倉 足利公方邸旧跡
このお宅の前にあります
鎌倉 足利公方邸旧跡
足利公方邸旧跡の碑
源頼朝に早くから仕えていた足利義兼がこの地に館を構えました。足利義兼は足利氏の2代めで、上総介に推挙されるなど源氏一族の中でも厚遇されていました。 足利氏は代々北条氏の娘を正室に迎えることで、北条氏による粛清を潜り抜けました。 しかし、鎌倉時代末には足利貞氏の側室の子・足利高氏(尊氏)が京の六波羅探題を攻撃し、鎌倉幕府倒幕に大きな役割を果たしました。 室町幕府を樹立した足利尊氏は、関東支配の拠点として鎌倉を重視しました。 はじめは弟の足利直義、観応の擾乱後は嫡男の足利義詮を置き、後にその弟・足利基氏を派遣して鎌倉公方としました。 以後、1455年に享徳の乱を起こした足利成氏が幕府軍に鎌倉を追われるまで、鎌倉が関東の中心地でした。
山内上杉氏邸跡
鎌倉市山ノ内 地図
鎌倉 山内上杉氏邸跡
明月院の入口
鎌倉 山内上杉氏邸跡
本堂
鎌倉 山内上杉氏邸跡
上杉憲方のやぐら
山内上杉氏は、上杉重房の曾孫・上杉憲顕を祖とします。 明月院は山内上杉氏の菩提寺で、館はその付近にあったとされますが位置は特定されていません。 上杉憲顕は足利尊氏・直義兄弟の従兄弟にあたり、足利尊氏の嫡男・足利義詮と弟で初代鎌倉公方・足利基氏から絶大な信頼を寄せられていました。 室町時代初期は山内上杉氏と犬懸上杉氏が交代で関東管領を務めましたが、1416年の上杉禅秀の乱で犬懸上杉氏が滅んだ後は、山内上杉氏が関東管領を世襲しました。 その後、1438年の永享の乱で 関東管領・上杉憲実が上野国の平井城へ逃れ、 1455年には享徳の乱で関東管領・山内上杉憲忠が鎌倉公方の足利成氏に暗殺されました。 家督と関東管領職を継いだ弟の上杉房顕は平井城に拠り、山内上杉氏が鎌倉に戻ることはありませんでした。
扇谷上杉管領屋敷跡
鎌倉市扇ガ谷2丁目 地図
鎌倉 扇谷上杉管領屋敷跡
扇谷上杉管領屋敷跡の碑
上杉氏は1252年に鎌倉幕府6代将軍となった宗尊親王が鎌倉に下向した際に従って来た上杉重房を祖とします。 上杉重房の子・頼重が足利貞氏に娘を嫁がせており、その娘が生んだ子が足利尊氏です。 上杉氏の嫡流である上杉重顕の家系は主に京都で活動しており、上杉朝定の養子・顕定が1352年に鎌倉に下向して扇ガ谷に館を構えたのが扇谷上杉氏の始まりです。 それから102年後の1453年、享徳の乱で鎌倉公方・足利成氏と上杉氏との間で戦が始まると、 扇谷上杉氏は河越城を築いて居城を移しました。
上杉朝宗及氏憲邸阯
鎌倉市浄明寺2丁目 地図
鎌倉 上杉朝宗及氏憲邸阯
上杉朝宗及氏憲邸阯の碑
この辺りは犬懸ヶ谷と呼ばれており、ここに館を構えた上杉朝宗・氏憲父子は犬懸上杉氏と呼ばれています。 室町時代初期は上杉氏の中でも山内上杉氏と犬懸上杉氏が特に勢力があり、両家が交互に関東管領を務めていました。 1416年に評定で鎌倉公方・足利持氏と対立して犬懸上杉氏憲が関東管領を解任されたため、政権転覆を目指しクーデターを起こしました(上杉禅秀の乱:禅秀は上杉氏憲の法名です)。 この乱は関東一円を舞台に派手な戦となりましたが、犬懸上杉氏憲側が敗れて滅びました。 この時、犬懸上杉氏憲の子が数名京へ逃れており、その中の1人である上杉教朝は後に堀越公方とともに下向し、関東執事となっています。
宅間上杉氏邸跡
鎌倉市浄明寺2丁目(報国寺) 地図
鎌倉 宅間上杉氏邸跡
報国寺
鎌倉 宅間上杉氏邸跡
報国寺の山門
この辺り一帯は、鎌倉時代に京から来た絵師・宅間為久が住んだことから「宅間ヶ谷」と呼ばれるようになり、室町時代に上杉氏が報国寺の一角に館を構えました。 上杉氏は他にも山ノ内や扇ガ谷、犬懸ヶ谷などに館を構え、区別するため地名を頭に付けて呼ばれるようになりました。 当初はこの四家が交代で関東執事(のちの関東管領)を務めましたが、次第に山内上杉氏が世襲するようになりました。 宅間上杉氏は永享の乱の際に榎下城に移りましたが、従っていた足利持氏が敗れ政権の中枢から遠ざかるようになりました。 宅間上杉氏自体はその後も続き後北条氏に仕えるようになり、後北条氏滅亡後は徳川家康に仕えて宅間姓を名乗るようになりました。
畠山重忠邸跡
鎌倉市雪ノ下3丁目 地図
鎌倉 畠山重忠邸跡
鶴岡八幡宮の鳥居が目の前
鎌倉 畠山重忠邸跡
畠山重忠邸址の碑
畠山重忠は知勇兼備+清廉潔白と無敵の武将で、鎌倉幕府草創期に活躍しました。 1180年に源頼朝が挙兵した際は平家に味方し、母方の祖父・三浦義明を討ち取っています。 しかし、源頼朝が安房国で再起してからは他の秩父一族同様に源頼朝に味方するようになり、平家との戦で無類の武功を立てました。 宇治川の戦では馬を流された同僚の大串重親を対岸へ放り投げたり、一ノ谷の戦では急斜面を馬を背負って駆け下りたなどの逸話が残ります。 源頼朝が没した後の1205年、北条時政により粛清されました。
太田道灌邸跡
鎌倉市扇ガ谷1丁目 地図
鎌倉 太田道灌邸跡
英勝寺と石碑
鎌倉 太田道灌邸跡
英勝寺
鎌倉 太田道灌邸旧跡
太田道灌邸旧跡の碑
扇谷上杉氏の重臣・太田道灌が館を構えていた場所です。 主家・扇谷上杉氏の館の真正面にありました。 太田道灌は上杉氏が対立していた鎌倉公方・足利成氏や、山内上杉氏から離反した長尾景春との戦いで大活躍しました。 これにより主である扇谷上杉氏の名声が一気に高まりましたが、危機感を抱いた山内上杉氏の謀略により、太田道灌は暗殺されてしまいました。 太田道灌が鎌倉の館で暮らしていたのは、江戸城を築いて移る1457年までだったと考えられています。 跡地にある英勝寺は、太田道灌の子孫で徳川家康の側室であった梶の方(英勝院)が、徳川家光からこの地を与えられて1634年に建立したものです。
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