石垣山城
所在地:神奈川県小田原市早川
2018年5月3日更新(最終訪問日 2018年5月12日) | |||
|
|||
◆概要◆ 石垣山はもともとは笠懸山、松山などと呼ばれていました。 1590年、豊臣秀吉が後北条氏の本拠・小田原城を日本全国から集めた15万人の大軍で包囲した時に、その本陣として総石垣の城を築いてからは石垣山と呼ばれるようになりました。 小田原城まで僅か3kmの所にあり、標高257mの本丸からは小田原城や城下の様子が一望できます。 小田原城からは見えないように築城を進めて完成後に周囲の木を伐採したため、後北条氏側には一夜にして城が築かれたかのように見せ、戦闘意欲を失わせる効果を果たしたといわれます。 実際には約3〜4万人を動員し、築城には80日を要したとされます。 当時、天守が存在したかどうかははっきりしませんが、天守台の跡は残っています。 石垣や櫓を備えた本格的な「近世城郭」であり、関東で最初に造られた総石垣の城でした。 石積みは豊臣秀吉が連れてきた近江の穴太衆による野面積みで、度重なる大地震に耐えて、今日まで当時の面影をたいへんよく残しています。 豊臣秀吉はこの城に滞在していた100日余りの間に天皇の勅使を迎えたり、千利休や能役者、猿楽師等を呼び寄せるなどしました。 また、淀君などの側室も呼び、参陣の諸大名にもこれにならうよう勧めたと言われています。 この城は単に小田原城攻めの本陣というだけでなく、太閤・豊臣秀吉の威信を示すと共に、長期戦に備えた本格的な城構えでした。 1923年の関東大震災で石垣に大きな被害を受けましたが、それでも現在もよく残っています。 1959年に国指定史跡に指定され、現在は「石垣山一夜城歴史公園」として整備されています。 2017年4月6日には続日本100名城にも選出されました。 |
|||
説明板に載っている縄張図 |
|||
|
|||
登城路に設置された説明板 駐車場までに8枚あります 駐車場 入口から迫力があります 南曲輪の石垣 南曲輪の桝形虎口の下です 馬屋曲輪(二ノ丸)の石垣 馬屋曲輪(二ノ丸) 櫓台 上から見た井戸曲輪 井戸曲輪の石垣 本丸の石垣 南曲輪 南曲輪の桝形虎口 西曲輪の虎口 西曲輪 天守台と本丸の石垣 本丸 本丸東門の桝形虎口 天守台 本丸北門の桝形虎口 |
|||