末森城
所在地:石川県羽咋郡宝達志水町竹生野
2010年5月5日(訪問日 2010年5月2日) | |
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◆概要◆ 加賀・能登・越中の国境にあり、交通の要衝でした。 「末守」あるいは「末盛」とも記載されます。 能登畠山氏家臣であった土肥親真により築かれたと考えられていますが、詳細は不明です。 1577年に能登制圧のため侵攻してきた上杉謙信に攻め落とされて、斎藤朝信らが末森に配されましたが、その後は土肥親真が城主となっています。 1580年に加賀国の一向一揆を鎮圧した柴田勝家が侵攻してくると、土肥親真は再び降伏。 土肥氏は前田利家の与力的な立場となりました。 この際に土肥親真は前田利家の妻・芳春院(まつ)の姪を娶って「末守殿」と呼ばれるようになりました。 土肥親真が賤ヶ岳の戦いで討死にした後は奥村永福が城主となり、1584年に佐々成政に攻められた際は死守しています(末森の合戦)。 この戦での勝利により、前田利家の加賀・能登・越中100万石の基礎が築かれたとされます。 その後、1615年に出された一国一城令により廃城となりました。 本丸主門は金沢城鶴の丸南門として移築されていましたが、1759年に火災で焼失。 本丸等の構造物が城下の寺院などへ転用されたという記録もあります。 廃城後は木々に覆われる一方でしたが、1985年に押水町役場(当時)により大規模な発掘調査が行われ、多くの歴史的資料が出土しました。 2002年に放送された大河ドラマ『利家とまつ〜加賀百万石物語〜』で注目を浴びるようになり、登城口に石碑が建てられました。 |
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案内図 |
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登城口から見た城跡 登城口に設置された石碑 若宮丸の土塁 二の丸の城塁 二の丸 本丸 |
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