古河城

所在地:茨城県古河市中央町
2009年3月15日(訪問日 2009年3月15日)

◆概要◆


 古河城は下河辺行平が平安時代末期に築いた城館が始まりとされています。 城が築かれた台地は渡良瀬川とその東側に広がる沼地に挟まれ、北から南に伸びる半島状になっていました。 城域の東南から南側は沼地で、沼地と渡良瀬川を生かした水に守られた要害でした。 北関東および江戸・房総を結ぶ、河川交通の要でした。 このような地理的条件のため、中世および近世には重要視されていました。
 享徳の乱(1454-82)では、第5代鎌倉公方・足利成氏が関東管領上杉氏と争っていました。 1455年、足利成氏が出陣中の鎌倉を駿河の今川範忠に制圧されたため、下総国古河に本拠を移しました。 その後の足利成氏は「古河公方」と呼ばれ、戦国時代の関東における一大勢力となりました。
 江戸時代には城内に古河藩庁が置かれ、多くの譜代大名が入れ替わりで城主を務めました。 城主は江戸幕府の要職を務めることが多く、大老の土井利勝・堀田正俊、老中の永井尚政・松平信之・本多忠良・土井利厚・土井利位などがいました。 城域は東西約500メートル、南北約1.8キロメートルあり、関東有数の規模の城でした。 天守は建てられませんでしたが、本丸の西北出隅に建てられた「御三階櫓」を天守の代用としました。 高さは約22メートルあり、水戸城や佐倉城の御三階櫓、松江城の天守(約22.4メートル)もほぼ同じ高さでした。 行政機能を担うとともに、将軍の日光参拝時の宿として、あるいは、江戸城北方の守りとして機能しました。
 明治時代初めに廃城となり、明治時代末に開始された渡良瀬川大改修の際に、残された城跡の大半が消滅しました。 古河歴史博物館内には精密な古河城下模型が展示されており、かつての全容を知ることができます。

古河城 標柱
渡良瀬川土手にある標柱
古河城 移築門
移築現存門(福法寺山門)地図
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