黒井城
所在地:兵庫県丹波市春日町黒井
2018年8月13日(訪問日 2019年8月6日) | |||
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◆概要◆ 黒井城は南北朝時代に赤松貞範により築かれました。 正確な築城時期は定かではありませんが、赤松貞範は足利尊氏に従って南朝方の脇屋義助(新田義貞の弟)との戦での功により、1335年に丹波国春日部荘を与えられています。 その後、観応の擾乱では足利尊氏方として活動し、足利直義方の山名時氏と戦っています。 赤松氏が5代続いた後、経緯は不詳ですが1500年頃に荻野氏のち赤井氏の城となりました。 1530年、細川晴元と細川高国(翌年に戦死)が争い、赤井氏は細川晴元に従いました。 細川高国の後を継いだ細川晴国方の波多野晴通により黒井城が攻め落とされ、赤井時家は別所氏の元に落ち延びました。 1536年に細川晴国が三宅国村の内通により自害に追い込まれると、赤井時家は領地を回復。 その後は細川氏綱、三好長慶らと戦い、内藤国貞を破った赤井時家が氷上郡のほぼ全域を手に入れました。 1570年、赤井直正は織田信長に従うことで領地を安堵されました。 しかし、同じく織田信長に従っていた山名祐豊が、赤井氏と同族の足立氏を攻めました。 赤井直正は山名祐豊に反撃し此隅山城に迫ると、山名祐豊は織田信長に援軍を要請。 1575年に明智光秀が丹波に攻め込みましたが、波多野秀治が丹波側に寝返り明智軍を撃退しました。 1577年に明智光秀が再び丹波に攻め込み、黒井城を包囲。 その中、赤井直正が病死し、兵糧が尽きた赤井軍は明智軍に降伏しました。 その後は明智光秀の重臣・斎藤利三が城主となり、この地で後に春日局となる福が生まれています。 1582年の本能寺の変の後は豊臣秀吉の家臣・堀尾吉晴が城主となりました。 堀尾吉晴は翌年若狭国高浜へ移っており、この時に廃城になったようです。 1584年、小牧・長久手の戦で豊臣秀吉と徳川家康が争った際、徳川家康に味方した赤井時直が黒井城に立て籠もりました。 黒井城が歴史に登場したのは、これが最後となります。 |
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![]() 登城口にある登城路の案内図 ![]() パンフレットに載っている本城の縄張図 |
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![]() 丹波市春日住民センター ![]() 興禅寺奥の登城口 ![]() 獣避けフェンスがあります ![]() ![]() ![]() ![]() 赤い門が石踏の段の目印です ![]() 石踏の段(登城口から20分) ![]() 2つ目の獣避けフェンス ![]() 東曲輪の石垣 ![]() 三の丸 ![]() 二の丸の石垣 ![]() 二の丸西側面の石垣 ![]() 二の丸西側面の石垣 ![]() 二の丸西側面の石垣 ![]() 二の丸 ![]() 二の丸と本丸の間の堀切と石垣 ![]() 本丸(登城口から30分、比高240m) ![]() 城址碑(保月城趾と彫られています) ![]() 本丸から見た二の丸 ![]() 眺め |
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