広島城
所在地:広島市中区基町
2019年8月12日更新(最終訪問日 2019年8月8日) | |||
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◆概要◆ 広島城は「己斐」の地名から別名・鯉城(りじょう)とも呼ばれています。 広島市中央公園と隣接し、復元された大天守は歴史博物館として利用されています。 毛利氏の居城・吉田郡山城は尼子氏の大軍を撃退したほどの堅固な山城でしたが、交通の便が悪く、天下が安定してからの本拠地としては不便でした。 そこで毛利輝元は1589年から築城を開始。 瀬戸内の水運が生かせる海沿いの平地へ拠点を移しました。 築城は川の中州の埋め立てるなど大工事となりました。 城の構造は大坂城を参考とし、縄張りは聚楽第に範を取っているとされます。 軟弱な地盤に築かれたため、石垣は重量を分散させるなどの工夫が凝らされています。 朝鮮出兵の後方基地として期待され、豊臣秀吉は側近の黒田如水を派遣して自らも建設中の広島城に滞在しました。 1599年の完成当初は内堀・中堀・外堀が約1km四方にわたり、大坂城に匹敵する規模の城でした。 福島正則が城主となった1600年以降に街道が整備され、町が拡大しました。 しかし、1619年に洪水後の修築が幕府に届け出が無かったため福島正則は改易され、以後は浅野氏の居城となりました。 明治維新後に外堀が埋められ、さらに原爆の瓦礫で中堀が埋まって現在の規模となりました。 |
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![]() 史跡広島城跡案内図 |
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![]() 二の丸太鼓櫓 ![]() 二の丸太鼓櫓 ![]() 二の丸と本丸の間 ![]() 裏御門跡 ![]() 本丸の北東側から ![]() 本丸の北東側から ![]() 天守(北東から) ![]() 天守(北西から) ![]() 北西部分 ![]() 北西の堀の外にある崩れた石垣 ![]() 天守(南西から) ![]() 西側 ![]() 表御門 ![]() 表御門 ![]() 表御門(内側) ![]() 多門櫓と太鼓櫓 ![]() 中御門跡 ![]() 中御門の桝形 ![]() 中御門跡(内側から) ![]() 本丸下段から見た上段 ![]() 中御門脇の石塁 ![]() 裏御門跡(内側) ![]() 広島大本営跡 ![]() 天守礎石 ![]() 天守礎石と復元天守 ![]() 天守入口 ![]() 天守 ![]() 小天守の石垣 ![]() 本丸北側の石塁 ![]() 本丸上段の土塁 |
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