鶉古城

所在地:群馬県邑楽郡邑楽町鶉新田
訪問日:2014年5月31日

◆概要◆


鶉古城は1333年に鎌倉幕府が滅亡した時、北条高時の弟で僧の慧性が荒間朝春とその家臣を含め、僅か5人でこの地に逃れて築いたとされます。 鶉古城でググるとこれしか出てこないので「出家してお坊さんだったから、そのままここで平穏に暮らしたんだ」と思ってしまいます。 もうちょっとググってみると恩林寺のサイトでも同様の事が書かれており、主語が省略されていることから「慧性が鶉に落ち着いて、北条氏の菩提を弔ったんだ」とも思ってしまいます。 ただ、それでもちょっと引っ掛かる事があって更にググると、全くそんな事ではありませんでした。

慧性こと北条四郎泰家は1326年、兄・北条高時が病で執権職を辞した時に次の執権候補に挙がりました。 この時に対立候補として北条高時の生後3か月の子・万寿丸(北条邦時)が推され、幕府内が真っ二つに割れる政争となりました。 結末は万寿丸が次の執権になることに決まり、大人になるまでの間、北条一族長老・北条貞顕が代わりに執権を務めることとなりました。 この時に北条泰家をはじめとする多くの者が出家し、北条貞顕暗殺の噂まで流れる程不穏な空気に包まれました。 北条泰時(慧性)の殺気を恐れた北条貞顕は、執権就任後わずか10日で職を辞したのでした。 慧性は1333年、新田義貞が鎌倉幕府を倒そうと鎌倉に攻め込んだ際、幕府軍を率いて一度は撃退に成功しました。 しかし、その後敗れて鎌倉が陥落すると、夜陰に紛れて鎌倉を脱出しました。 慧性はまず兄・北条高時の子らを信濃へ逃がし、自身は奥州を目指したとされます。 江ノ島弁財天が慧性の夢に現れて「上野の国邑楽郡の郷に清浄の霊地あり、その地に行き塁を築いて居住し、時の到るを待つべし」と言ったのはこの時だったんですね! 慧性とともにこの地に逃れて来たのは、弟の荒間五郎朝春とその家臣である垣上正信、小久保図書、安藤安綱の合わせて5人でした。 慧性は更にその先の奥州へと旅立ち、残った荒間朝春が鶉古城を、垣上正信あらため茂木貞良が鶉城を築き、北条氏再興の日を待ちわびたのでしょう。

その北条泰家(慧性)は1335年に京へ上り、旧知の西園寺公宗の屋敷に潜伏しました。 そこで建武新政に不満を持つ勢力や北条氏残党を糾合し、後醍醐天皇暗殺や北条氏再興を目指しますが事前に計画がバレてしまい、西園寺公安は処刑されてしまいました。 北条泰家はこの時も逃れ、信濃の諏訪頼重の元に預けていた兄の子・北条時行を旗頭として挙兵しました。 これが日本史の授業で習う「中先代の乱」で、北条時行は2度鎌倉を奪還しています。 しかし、北条泰家は信濃で小笠原氏や村上氏の軍勢と戦った後、消息不明となりました。 なので、慧性が1353年に恩林寺を創建することはあり得ません。

恩林寺が創建された1353年というのは、実は北条時行が足利尊氏に捕まって処刑されたとされる年です。 慧性ととも逃れて来た4人の内、鶉に土着した者により建立されたという事でしょうか。 北条時行は中先代の乱を鎮圧された後、いつの間にか京に上り、後醍醐天皇から免勅(北条氏が朝敵となった事を取り消す)を手に入れました。 その後は南朝の一武将として戦いに明け暮れ、敗れては姿を晦まし、再び現れては足利尊氏の命を狙い続けました。 そして18年後の1553年、鎌倉公方・足利基氏を破って一時は鎌倉を占領したものの、次第に旗色が悪くなり鎌倉で捕らえられたのでした。 恩林寺は鎌倉五山第一位の建長寺の東林雄丘和尚により開基されました。 鶉古城の先端部にある浮島弁才天もこの時に勧請されたそうです。

この後、応永年間(1394〜1428年の間)には多々良忠致の城となり、1584年には館林城主・長尾顕長の重臣・小曽根政義が後北条軍に備えて城に入りました。 長尾顕長は由良国繁の弟で、当時は反後北条の佐竹氏・宇都宮氏の後ろ盾を得て抵抗していました。 しかし、この年の末に後北条氏が佐竹氏・宇都宮氏と和議を結んだため手詰まりとなり、館林城を明け渡しています。 その後、1590年に後北条氏が滅ぼされると長尾顕長も領地を失い、鶉古城も廃城となりました。
鶉古城
多々良沼公園の駐車場
鶉古城
駐車場のすぐ脇にある堀
鶉古城
土塁
鶉古城
土塁を乗り越える階段
鶉古城
標柱と説明板
鶉古城
そのすぐ南側にある出入口
鶉古城
出入口から駐車場側を見た所
鶉古城
出入口からその反対側を見た所
鶉古城
北面の堀跡には水が溜まっています
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