内出城

所在地:群馬県安中市東上秋間
2017年9月17日更新(訪問日 2014年5月17日)

◆概要◆


秋間小学校の北側にある台地が城跡です。 住宅街となっており遺構は全く無いとされています。 あまり期待せずに散策しましたが、堀跡や城塁の名残は感じられたと思います。

歴史は不詳ですが、周辺の状況から以下のように推測しました。

内出城は南北朝時代に吉良治家により築かれたとされています。 吉良治家は奥州管領・吉良満家の弟です。 1356年頃に兄・吉良満家が没したと考えられ、叔父の吉良貞経と家中の主導権争いを演じました。 しかし、斯波家兼が新たに奥州管領として赴任すると家臣が両吉良氏を見限ったため没落しました。 その吉良治家を鎌倉公方・足利基氏が関東に呼び、上野国碓氷郡飽間郷を与えました。 飽間郷は元々は飽間氏が支配していましたが、南朝に味方したため足利基氏が領地を奪いました。 ただし、飽間氏はその後も西にある山城の茶臼山城に拠っていたため、その抑えとして吉良治家を配置したようです。 吉良治家は飽間大輔治家と名乗るようになりました。 その後、吉良治家は武蔵国世田谷郷を与えられ、孫の吉良頼氏が応永年間(1394〜1426年の間)にそちらへ移りました。 鎌倉公方が足利持氏の頃とされるので、1409年以降と思われます。 吉良氏が去ると飽間氏が内出城に移り、以後本拠にしたとされますが、以後の様子がわかりません。 安中には1487年に安中顕繁が越後国から移って来ており、戦国時代まで安中一帯を支配しました。 その主力が秋間七騎衆とよばれる家臣団で、赤見藤九郎、五十嵐団右衛門、内出玄蕃介、奥原新左衛門、島崎蔵人、東城但馬守、深堀藤右衛門がそのメンバーでした。 ここに飽間氏(秋間氏)の名が無いことと、城と同名の内出氏の名が登場します。 安中顕繁が安中に来た時の経緯は不明ですが、その1487年に、越後上杉家出身の関東管領・上杉顕定が、扇谷上杉氏との間で長享の乱を起こしています。 これらの状況から、飽間氏が関東管領・上杉顕定に滅ぼされ、越後時代からの家臣であった安中顕繁に与えられたのかもしれません。
内出城
東側から上がる道
内出城
城跡は住宅街となっています
内出城
堀跡でしょうか
内出城
西側に下る道
内出城
城跡っぽい雰囲気はあります
内出城
横矢の掛かった道?
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