箕輪城
所在地:群馬県高崎市箕郷町東明屋
2017年4月16日更新(最終訪問日 2017年4月15日) | |||||
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◆概要◆ 1512年に長野業尚によって築かれたという説と、1526年に長野業尚の子・信業によって築かれたという説があります。 城の西を榛名白川、南を榛名沼が流れており、天然の堀の役割を果たしています。 城域は東西約500m、南北約1100m、面積約47haに及ぶ広大なものでした。 戦国時代の上野国は関東管領・山内上杉家の本拠地でしたが、1550年代に北条氏康の勢力拡大を受け上杉憲政が越後国へ亡命しました。 その後も山内上杉家の重臣だった長野氏は残り、越後国の長尾景虎(=上杉謙信)の後ろ盾を得て北条氏康、武田信玄の侵攻を跳ね返し続けました。 長野業正は「箕輪衆」と呼ばれる武士団をよく束ねて長野氏全盛時代を築き上げ、長野氏最大の版図を有するに至りました。 長野業正は、武田信玄の6回にわたる侵攻を全て撃退し、武田信玄は「業正ひとりが上野にいる限り、上野を攻め取ることはできぬ」と嘆いたと伝わります。 1561年に長野業正が世を去ると、武田信玄は徐々に長野氏の城を攻略し、5年の歳月をかけて箕輪城を攻め落としました。 1582年に武田勝頼が滅びた後は北条氏政と織田信長(滝川一益)が激しい争奪戦を繰り広げましたが、間もなく織田信長が本能寺の変に斃れたため、北条氏政が上野国の大半を勝ち取りました。 その後、1590年に後北条氏が滅亡すると徳川家康が関東に移され、箕輪城は井伊直政が城主となりました。 井伊直政は大規模な改修を加えましたが1593年に高崎城へ移り、箕輪城は廃城となりました。 2016年11月に郭馬出西虎口門が復元され、本丸西虎口門も今後復元される計画があります。 |
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搦手口 二の丸の虎口 二の丸 大堀切 大堀切 郭馬出西虎口門 郭馬出を囲む堀 百名城スタンプの箱 スタンプが押された状態で入っています 二の丸と本丸の間の堀 本丸門馬出 城址碑 本丸 本丸と御前曲輪の間の堀 御前曲輪 本丸裏側の堀 御前曲輪北側の堀にある石垣 北側の堀底から見た御前曲輪 大手虎韜門側から見た大堀切 虎韜門跡 鍛冶曲輪の石垣 三の丸西側の石垣 |
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