今村城

所在地:群馬県伊勢崎市稲荷町
2017年7月30日更新(訪問日:2014年5月18日)

◆概要◆


説明板では、東西南北に約400メートルの輪郭式だったと書かれています。 現状は本丸だけがわずかに痕跡を残すとも書かれていますが、城キチの贔屓の引き倒しで見ても、どこがどうだったのか見当も付かない位に何も残っていません。 城址碑と説明板があり、ネットでここが城跡だと紹介されていなければ、ここにお城があったとは思えないです。 さて、今村城は室町時代に那波宗俊により築かれたとされます。 那波氏は平安時代に館林一帯を支配していた佐貫氏から派生した一族です。 那波宗俊の頃は山内上杉氏に従っており、金山城の由良氏と争っていました。 1550年代に山内上杉氏が越後へ逃れると、上野国へ勢力を拡大してきた後北条氏に従うようになりました。 1560年に長尾景虎が上杉憲政を奉じて関東へ攻め込んだ際は、旧山内上杉家臣は寝返る者が多数ありました。 しかし、那波氏は後北条方として抵抗したため攻められ、城は長尾景虎に従った由良成繁のものとなりました。 城を失った那波氏は、長男・宗安は浪人した末に武田信玄に仕え、次男は上杉家に人質に取られている間に北条高広の娘を娶り、元服して那波顕宗と名乗るようになりました。 その後、1566年または1574年に由良成繁が後北条氏に寝返ったため上杉謙信が攻めて旧領の一部を奪い返し、那波顕宗は今村城を居城とするようになりました。 1578年に上杉謙信が没した後は北条高広と行動を共にし、那波顕宗は後北条氏に鞍替えしました。 1590年に豊臣秀吉に滅ぼされると那波顕宗は領地を失い、廃城となりました。
今村城
城址碑と説明板
今村城
西側から
今村城
東側から
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