岩村城
所在地:岐阜県恵那市岩村町
2018年9月17日更新(最終訪問日 2018年9月16日) | ||||
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◆概要◆ 1185年または1195年に源頼朝の重臣・加藤景廉が地頭に就いた時に築かれました。 本丸が日本で最も高い海抜717mに位置していたため、日本三大山城の一つに数えられています。 加藤景廉の子・景朝はこの地に赴任し、姓を遠山と改めました。 1571年、子孫の遠山景任が没すると、織田信長は自らの5男で当時6歳の御坊丸を遠山氏の養子としました。 遠山景任の未亡人は織田信長の叔母で、幼少の養子に代わって城主となりました。 翌年、武田信玄は秋山信友に岩村城の攻略を命じました。 城はなかなか落城しませんでしたが、未亡人を秋山信友の妻に迎えることで開城しました。 1575年に長篠の戦で武田軍が織田・徳川連合軍に敗れて勢力が弱まると、織田信忠が総大将として岩村城を攻めました。 開城の際に命は助けると約束されていましたが、織田信忠はこの約束を破って秋山信友夫妻ら5名が処刑されました。 その後、森長可が城主の時に近代城郭に大改修が加えられ、江戸時代には岩村藩の藩庁として存続しました。 明治時代に出された廃城令により1873年に建物は解体され、石垣のみとなとなりました。 1990年に藩主邸の一部、表御門・平重門・太鼓櫓などが復元されました。 |
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岩村歴史資料館の駐車場にある総合案内図 |
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岩村歴史資料館 太鼓櫓 藤坂の石畳 初門跡 一之門跡 屋敷跡の段 土岐門跡 土岐門跡 追手門跡の石垣 上から見た追手門と畳橋の跡 追手門跡 畳橋・追手門・三重櫓の絵図 追手門内側の石垣 屋敷の石垣 霧ヶ井 八幡曲輪の石垣 六段壁と二の丸菱櫓の石垣 東曲輪と六段壁の石垣 東曲輪と六段壁の石垣 長局埋門跡 長局埋門跡 長局埋門と本丸の石垣 埋門跡 埋門跡 本丸の桝形門跡 本丸の桝形門跡 本丸 出丸は駐車場になっています 出丸から見た本丸の石垣 本丸南側にある南曲輪への道 1つ目の堀切 2つ目の堀切 南曲輪 |
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