向羽黒山城
所在地:福島県大沼郡会津美里町本郷船場
2018年5月27日更新(最終訪問日 2018年5月26日) | |||
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◆概要◆ 向羽黒山城は別名・岩崎城とも呼ばれ、1561年から蘆名盛氏により築かれました。 築城には8年の歳月を費やされ、東北地方最大級の山城を築かれました。 蘆名盛氏は嫡男・蘆名盛興に家督を譲って隠居していたものの、その後も実権を握り続けていました。 しかし、1574年に蘆名盛興が29歳の若さで世を去り、1580年には蘆名盛氏も没しました。 家督は二階堂氏から人質となっていた二階堂盛義の子が蘆名盛興の未亡人を正室に迎え、蘆名盛隆と改名して継ぎました。 蘆名盛隆は生家の二階堂本家が衰退していたのを援助しましたが、これが家中で反発を招きました。 そんな中、1584年に寵臣の大庭三左衛門に黒川城内で襲われ、23歳で世を去りました。 生後1ヶ月の亀王丸が家督を継いだものの、伊達政宗が同盟を破棄して攻めて来るようになりました。 その亀王丸もわずか3歳で病死すると、蘆名家には家督を継ぐ男子が絶えてしまいました。 家臣団は養子を伊達家から迎えようとする派閥と佐竹家から迎えようとする派閥に分裂。 最終的には金上盛備の政略により、佐竹義重の次男・義広を養子に迎え、蘆名家の家督を継ぎました。 これにより伊達政宗との関係は修復不能となりました。 佐竹派の家臣団は伊達派の家臣達を次々と失脚させ、伊達政宗や上杉景勝が彼らを調略することで蘆名家の力は日に日に弱まりました。 こうして1589年に伊達家と蘆名家が戦った摺上原の戦いでは、蘆名四天王が勝手に退却するなどして大敗。 蘆名義広は密かに生家の常陸へ逃れ、蘆名家は滅びました。 その後会津は蒲生氏郷、上杉景勝が領主となりますが、徳川家康に直江状を送り戦いを挑んだ上杉景勝により大改修されています。 その上杉景勝が関ケ原の戦で米沢に移された時に廃城になったものと思われます。 城跡は2001年に国の史跡に指定され、2017年4月6日に続日本百名城に選出されました。 |
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駐車場 堀切・門跡の案内 二の丸と本丸の間の堀切跡 二の丸の案内のある駐車場脇の階段 二の丸の虎口 二の丸 本丸の登城口は〇印の所です 本丸の登城口 本丸への登城路 巨大な竪堀 行き止まりのような所 横堀があります 再び現れた登る道 再び現れた行き止まり またも現れた登る道 三度めの行き止まり ここにも横堀があります またまた回り込むように登ります 今度はちょっと様子が違います 本丸の標柱がありました! 本丸 |
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