一乗谷城
所在地:福井市城戸ノ内町ほか
2018年7月16日更新(最終訪問日 2018年7月15日) | ||||
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◆概要◆ 戦国時代に越前国を支配した戦国大名・朝倉氏が本拠とした城です。 福井市街の東南約10km、足羽川支流である一乗谷川下流沿いの細長い谷あいに築かれていました。 東、西、南を山に囲まれ、北には足羽川が流れる天然の要害で、周辺の山峰には城砦や見張台が築かれ、地域全体が広大な要塞群でした。 また、谷あいの南北に「城戸」を設け、その間の長さ約1.7kmの「城戸ノ内」に武家屋敷をはじめ寺院、町屋が計画的に整備され、日本有数の城下町を形成していました。 三国湊に続く足羽川の水運や大野盆地に通じる美濃街道、鹿俣峠を抜け越前府中へ続く街道などが通り交通の要衝でもありました。 朝倉氏は南北朝時代頃には既に一乗谷を本拠にしていたと考えられています。 足利将軍家の分家である鞍谷公方もいたことから、応仁の乱を避けて京から多くの公家や高僧、文人、学者たちが避難してきました。 そのため飛躍的に発展し、「北ノ京」とも呼ばれていました。 4代・朝倉孝景の頃に全盛期を迎え、最盛期には人口1万人を超えていました。 しかし、1573年8月、刀禰坂の戦いで朝倉義景が織田信長に敗れ、一乗谷は灰燼に帰しました。 朝倉氏の後に越前守護代となった朝倉氏旧臣・桂田長俊も一乗谷に居館を構えましたが、1575年1月の一揆により一族もろとも討ち取られました。 一揆平定後に越前八郡を与えられた柴田勝家が北ノ庄を本拠としたため、一乗谷は田畑の下に埋もれていきました。 1960年代より本格的な発掘調査が開始され、160万点を超える遺品が出土。 そのうち2343点が国の重要文化財に指定され、1981年には発掘結果を保存・展示する一乗谷朝倉氏遺跡資料館が遺跡の付近に開館しました。 |
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水堀と城塁 唐門(城跡にあったお寺の門です) 居館跡 庭園跡 土塁 土塁 山城の遠景 山城部分への登城口(八幡神社) 小見放城 |
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山城部分についてはブログを参照ください | ||||
不動清水 千畳敷 一の丸手前の堀切 背後の高台が一の丸 一の丸と二の丸の間の堀切@ 一の丸と二の丸の間の堀切A 背後の高台が二の丸 二の丸と三の丸の間の堀切 三の丸の案内 三の丸の堀切 三の丸南曲輪(城山山頂) 三の丸裏の堀切 |
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