土気城

所在地:千葉市緑区土気町
2011年5月15日(訪問日:2011年5月14日)

◆概要◆


土気城は、平安時代の鎮守府将軍であった大野東人が、東北地方の蝦夷に対する軍事的拠点の1つとして築いたものと伝わっています。 室町時代に入ると酒井定隆が土気城を修復して居城としました。 上総酒井氏の祖・酒井定隆の出自は新田氏説、上杉氏説、千葉氏説、波多野氏説、土岐氏説などがあり、どれも決定的な証拠がありません。 古文書では酒井定隆は足利氏一門で、遠江出身の智勇兼備の武将でしたが、関八州を手に入れようと房総の地に赴いたとされます。 酒井定隆は里見氏の援助を得て下総中野に城を築き、土気城を攻略して1488年に移りました。 1521年に隠居して嫡子・酒井定治に家督を譲り、三男・酒井隆敏とともに東金に移りました。 この時に上総酒井氏は土気酒井氏と東金酒井氏に分かれました。 1538年にあった第一次国府台合戦では両家とも小弓公方側として戦いましたが、その後は北条氏側に転じ、里見氏と戦っています。 上総は後北条氏の勢力圏ではありましたが地理的には里見氏の方が近く、状況に応じてどちらに味方するのか一定しませんでした。 1564年にあった第二次国府台合戦では後北条氏と里見・上杉連合軍が対峙しました。 この時酒井両家は後北条氏側に味方する予定でしたが、出陣が遅れたことを「不忠之仁」と疑われてしまいました。 そのため両家は里見・上杉連合軍側に転じ、追撃する後北条勢を防いで、敗走する里見義弘を助けました。 戦後、後北条家は両家に降伏するよう働きかけ、東金酒井氏は応じました。 しかし、土気酒井氏は「不忠之仁」と疑われたことや重臣を討たれたこと、自身も戦傷を負った事などから応じず、後北条氏から軍事的圧迫を受けることとなりました。 後北条軍が何度も土気城を攻めましたが、土気酒井氏は頑強に抵抗し続けました。 この時は両家が直接戦っていますが、地元の記録からは抹消されているといいます。 その後、東金酒井氏も土気酒井氏に同調し、1576年に土気城、東金城とも後北条氏の大軍に包囲されました。 この時、頼みの綱であった里見氏は援軍を出しませんでした。 そのため孤立無援となった両酒井氏は後北条軍に降伏し、以後は里見氏との合戦で先陣を務めました。 そして1590年、豊臣秀吉により後北条氏が滅ぼされると、両酒井氏は運命を共にすることとなりました。 領地を追われた両家は没落しましたが、後に徳川家康に見出され、旗本として存続しました。
土気城 図
説明板に載っている概略図
土気城 クラン坂
クラン坂
土気城 三の丸跡
三の丸跡は畑です
土気城 土塁
土塁
土気城 本丸
本丸跡
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