脇本城
所在地:秋田県男鹿市脇本脇本七沢
2018年4月15日更新(最終訪問日 2018年4月14日) | |||
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◆概要◆ 1577年に安東愛季が大改修を加えて居城としました。 それ以前から城館があったようですが、それがいつからなのかはわかっていません。 安東氏は鎌倉時代後期に上国家(湊安東氏)と下国家(檜山安東氏)にわかれ、長い間対立してきました。 しかし、安東舜季の代に和睦し、両家の間に生まれたのが安東愛季でした。 両家は1570年に統一され、檜山の宗家を安東愛季、湊の分家をその弟・安東茂季が継いでいます。 1577年に安東愛季が脇本城を大改修して本拠としました。 安東愛季は大宝寺氏や浅利氏を屈服させて、安東氏の最盛期を築き上げています。 1587年に安東愛季が陣中で病没すると、その次男・安東実季が12歳で家督を継ぎました。 これに湊安東氏を継いでいた従兄弟の安東通季が反発し、戸沢氏や小野寺氏を味方につけて謀反を起こしました。 この戦では安東実季は檜山城に5ヶ月もの間籠城した後、大浦為信や由利十二頭を味方につけて謀反を鎮圧しました。 これが豊臣秀吉の定めた私闘を禁じる惣無事令に反するものとして問題になりましたが、没収された領地の代官となったため、実質的にはお咎め無しで存続しました。 湊合戦を制した安東実季は本拠を湊城に移し、秋田介を自称していた関係から秋田姓に改姓しました。 ということで、脇本城は実質的に安東愛季の一代限りで役割を終えたようです。 城跡の整備は1987年から始まり、1995年に男鹿市指定文化財、1997年に秋田県指定文化財、2004年に国指定文化財に指定されました。 2017年4月6日には続日本百名城にも選出されています。 |
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一番下の駐車場脇にある案内図 |
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登城口(国道の側道です) 案内所の駐車場 駐車場のちょっと先から見上げた所 説明板が2枚あります 裏に回った所 説明板の所から見た生鼻崎 西側土塁の説明 西側土塁 曲輪が段差や空堀で区画されています 生鼻崎先端から振り返った所 望遠で内館を撮影 木が無いのでよく撮れます 主郭の復元想像図 最近設置されたようです 主郭の前にある空堀 主殿のあった場所から見える大土塁 大土塁はコの字形になっています 居館脇から下りる道 |
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