秋田城
所在地:秋田市寺内大畑
2018年4月15日更新(最終訪問日 2018年4月14日) | ||||
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◆概要◆ 東北地方の古代城柵というと、中央政権が蝦夷を討伐するために置かれた軍事拠点というイメージがあります。 しかし、秋田城は発掘調査の結果、軍事拠点というよりも、外交施設であった可能性が高いそうです。 秋田城の史料での初出は『続日本記』で、733年に出羽柵が設置されたと記載されています。 当時の秋田地方では大規模集落の遺跡が見つかっていないため、討伐対象となる蝦夷の人口が少なかったことと、 建物が礎石形式ではなく掘立柱形式だったことから、渤海からの外交使節を迎える迎賓館だったと考えられています。 760年頃に「阿支太城」に改称され、780年には廃停も検討されましたが、却って体制が強化されて「秋田城介」が置かれるようになりました。 878年には苛政により住民の1/3が逃亡しており、反乱を起こした俘囚により一時占拠されました。 発掘調査でもこの時のものと思われる焼土層が確認されたそうです。 その後、平安時代の10世紀後半まで存続したようですが、以後の年代の遺物が見つかっておらず、この時までに廃城となったようです。 江戸時代に秋田城がこの辺りにあったと推定され、昭和に入って行われた発掘調査でそのことが裏付けられました。 1939年に国の史跡に指定され、1998年には外郭東門が復元されました。2017年には続日本100名城に選定されています。 |
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案内図 |
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大駐車場から道を挟んで見えるのが、復元された東門です。
最近古代の城跡でもこのように建築物を復元する動きがあり、嬉しい限りです。
出来れば塀をもっと長くして欲しい、とか、城門の内と外が逆じゃないか?、とか、色々注文をつけたくなりますが・・・。
でも、何も無い地面にただ「〇〇跡」とプレートだけを置いてあるのに比べれば、遥かに想像力を掻き立てられます。
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復元された外郭東門 模型 外側から見た外郭東門 政庁東門(復元) 塀の切れ目を見せないよう撮影 反対側は角もあります 政庁跡には模型と説明板があります 3期に分けられています 2期め以降は規模も小さく地味です 政庁の柱跡 復元された古代の水洗トイレ 政庁のすぐ脇にある護国神社 |
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